四天王寺念仏堂
提供: 新纂浄土宗大辞典
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してんのうじねんぶつどう/四天王寺念仏堂
大阪市天王寺区四天王寺にある和宗総本山・四天王寺内の、法然が念仏修行し、弟子の法性寺空阿が不断念仏を始めたとされる遺跡。法然上人二十五霊場第六番。四天王寺は聖徳太子の創建と伝え、平安中期以降、太子信仰とともに浄土教の信仰が隆盛し、西門は極楽浄土の東門とされて日想観の聖地となった。また、西門内外には念仏堂(念仏所)が設けられ、百万遍念仏や迎講などが修された。『天王寺別当次第』所収の「四天王寺歴代借住諸祖略録」は、法然が承安四年(一一七四)当寺に滞在したとする。元和九年(一六二三)再建後の伽藍図には、西門と石鳥居の間の北側に短声堂、南側に引声堂を描く。元禄一四年(一七〇一)刊『摂陽群談』は、北側短声堂に釈迦・文殊・普賢の三仏、南側引声堂に五智如来を安置し、両堂とも称名勤行の道場で、両彼岸には融通念仏が修されるとする。宝永五年(一七〇八)稿『天王寺公文所考』所収「伽藍略絵図」では、北側の堂を念仏堂と表記する。ところが『翼賛』は、北側が引声堂で南側が短声堂として「右二堂処々に念仏堂と号す」(浄全一六・七七二下)とし、また、霊沢の『円光大師御遺跡廿五箇所案内記』は、北側を引声堂・念仏堂とする。寛政一〇年(一七九八)刊『摂津名所図会』では、北側の短声堂に法然の御影の安置を記す。念仏堂は昭和二〇年(一九四五)三月の空襲により焼失、現在は、同二八年に三重県国束寺の本堂を移築した阿弥陀堂を札所としている。
【資料】『翼賛』四八・五一、『天王寺別当次第』(『続群書類従』四下)、『摂陽群談』一二(『大日本地誌大系』三八、雄山閣、一九七一)
【参考】天沼俊一編『四天王寺図録 伽藍編』(四天王寺、一九三五)、藤田寛雅「四天王寺西門念仏堂攷」(『歴史地理』六七—一、一九三六)、菊地勇次郎「天王寺の念仏」(『源空とその門下』法蔵館、一九八五)【図版】巻末付録
【参照項目】➡法然上人二十五霊場
【執筆者:山本博子】