慈円
提供: 新纂浄土宗大辞典
じえん/慈円
久寿二年(一一五五)四月一五日—嘉禄元年(一二二五)九月二五日。「吉水の僧正」とも呼ばれる。関白藤原忠通の子で九条兼実は同母兄。青蓮院門跡の覚快のもとに入室、道快と名乗り法性寺座主に就く。覚快没後、慈円と改名し青蓮院を継承、灌頂は全玄より受けた。九条兼実が関白をしていた建久三年(一一九二)天台座主・権僧正となるが、同七年の政変で兼実が失脚するにともない辞任。その後、還補と辞任をくり返し、計四度座主を勤めた。建仁三年(一二〇三)大僧正。鎌倉初期を代表する台密僧で、後鳥羽院や九条家の祈禱に手腕をふるい、青蓮院を台密三昧流の重要拠点に発展させた。天台僧の学力向上のため大乗院に勧学講を創始、また吉水に大懺法院を建立して内乱による怨霊・亡卒を滅罪供養した。承久年間(一二一九—一二二二)執筆の『愚管抄』には、専修念仏の広まりと安楽・住蓮の密通事件、あるいは法然の臨終の様子を伝えており、同時代人の冷静な観察眼がうかがえる。浄土宗には批判的であったが、兼実との関係から法然に配慮する面もあり、法然の最晩年の住まい大谷の禅房は慈円の手配による。歌人としても有名で歌集に『拾玉集』がある。一三回忌に慈鎮和尚の諡号がおくられた。
【資料】『慈鎮和尚伝』、『門葉記』
【参考】多賀宗隼『慈円の研究』(吉川弘文館、一九八〇)、三崎良周『台密の理論と実践』(創文社、一九九四)
【執筆者:善裕昭】