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貞慶

提供: 新纂浄土宗大辞典

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じょうけい/貞慶

久寿二年(一一五五)五月二一日—建暦三年(一二一三)二月三日。いみな貞慶解脱房と号す。平安末から鎌倉初期の法相宗の学僧。藤原通憲(信西入道)の孫で、父は藤原貞憲。叔父に叡山安居院あぐい澄憲、醍醐寺の勝賢、高野山明遍らがいる。幼くして興福寺にて出家。叔父の興福寺別当覚憲について修学。維摩会などに出仕し已講でありながら、僧綱への昇進をなげうち、建久四年(一一九三)三九歳にして突如、笠置山かさぎやま遁世する。勧進聖と連携して笠置寺を再興するも、承元二年(一二〇八)五四歳のとき、さらに海住山寺に移住し、同寺で示寂(五九歳)。貞慶の生涯における事跡は多岐にわたる。伝統的法相教学を大成する一方で、一乗教と三乗教の融会を説き、また易行化を図るなど革新的な思想展開が見られる。そして朝廷に専修念仏停止ちょうじを要求する『興福寺奏状』を起草した。晩年は常喜院を建立して戒律復興に努めた。また弥勒釈迦舎利・観音・春日など多様な神仏への信仰を有し、種々の講式を作成している。著作は『愚迷発心集』『唯識論尋思抄』『法相心要抄』『法華経開示抄』など多数が存在し、戒如・覚真・覚遍・良算ほか弟子も多い。


【資料】『大日本史料』四編之一二


【参考】『日本思想大系』一五(岩波書店、一九七一)


【参照項目】➡興福寺奏状


【執筆者:舩田淳一】