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三武一宗の法難

提供: 新纂浄土宗大辞典

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さんぶいっそうのほうなん/三武一宗の法難

中国四王朝の四人の皇帝による仏教弾圧(廃仏)のこと。①北魏の太武帝による太延四年(四三八)、太平真君五年(四四四)、同七年②北周の武帝による建徳三年(五七四)、同六年③唐の武宗による会昌五年(八四五)④後周の世宗による顕徳二年(九五五)に起こった弾圧である。①北魏の太武帝の廃仏は、武功第一の太武帝にとっては「虜(魏)を滅するは呉なり」(『宋書』索虜伝)の図讖としんに類する謡言ようげんの禁圧が必要であり、「謡言—図讖—僧侶仏教」の密接な連関のもとに、図讖禁絶と連携して道士である寇謙之こうけんしの好まない完膚無きまでの廃仏が行われた。②北周の武帝の廃仏は、武帝が「黒衣まさに王たるべし」(『集古今仏道論衡』乙)の讖言により仏教を嫌っている所に、道士の張賓ちょうひんが「黒釈をもって苦国の忌となし、黄老をもって国祥となす」(『広弘明集』八)として、還俗僧の衛元嵩えいげんすうと共に進言したことに起因する。武帝は有徳の衆僧、名儒道士、文武百官に三教の優劣を論じさせ、張賓・智炫の論争を経て、仏・道二教を共に廃棄した。③唐の武宗の廃仏は、武宗がつとに道教を尊信しており、最期は仙薬を飲んだために崩じてしまった程の道教信仰者であったことに起因する。道士の趙帰真は「孔子説いて云う。李氏に十八子あり。昌運まさに尽く。すなわち黒衣の天子あり。国をおさむ」(『入唐求法巡礼記』四)との図讖を奏言し、武宗はこれをも憎み宰相の李徳裕等により廃仏が行われた。④後周の世宗の廃仏は、前者の三つの廃仏とは異なり、主に僧侶の堕落・経済的な理由により世宗の富国強兵策として仏教統制が行われた。なお、「三武一宗の法難」の名称の初出は不明。「三武一宗」ならば「二武二宗」でも可とすべきで、論理的には「三武一世の法難」というべきともいえる。ちなみに、北宋・張商英述『護法論』に「三武」、南宋・志磐撰『仏祖統紀』四二に四時の廃仏のことが述べられている。


【参考】春本秀雄「北魏法難の研究文献(一)—付廃仏関係論文資料」(『仏教文化研究』四四、二〇〇〇)、同「北魏の図讖禁絶—特に太武帝時について」(正大紀要九二、二〇〇七)


【執筆者:春本秀雄】