三重の念仏
提供: 新纂浄土宗大辞典
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さんじゅうのねんぶつ/三重の念仏
一
法然が聖光に対して、念仏には三種の異なりがあることを示したもの。①『摩詞止観』の念仏、②『往生要集』の念仏、③善導勧化の念仏のこと。建久八年(一一九七)に聖光が法然のもとを訪ねた際に説かれたもので、法然は六五歳、聖光が三六歳のときであった。『四十八巻伝』四六には法然が聖光に対して「汝は天台の学者なれば、須く三重の念仏を分別して聞かしめむ。一には『摩訶止観』に明かす念仏、二には『往生要集』に勧むる念仏、三には善導の立て給える念仏なりとて、詳しくこれを述べ給う」(聖典六・七一四)と述べたとある。聖冏の『銘心抄』上には「一に摩詞止観の念仏とは、止観の念仏はこれ止観を助けんが為に、仏の救護を請い、声を揚げて称名するなり。二に要集の念仏とは、往生を要期すといえども、念仏の言は、広く五念門にわたり観称に通ず。いわんや、作願門は一向に菩提心なり。但信称名を念仏というには非ず。三には今家所立の念仏とは、助正二業を分別し、観察等を助とし、ただ称名を正とす。故に、念仏の言は余を兼ねず」(聖典五・三八一~二/浄全一〇・六三上)と記されている。すなわち①の『摩詞止観』の念仏とは、真如を体得するための方便としての念仏であり、理観の助業としての念仏である。②の『往生要集』の念仏とは、往生浄土を目的とするものの観勝称劣を旨とするものであり、但信称名をもって念仏とするものではない。③の善導勧化の念仏とは、正助二業を分けて観察等を助業とし、称名念仏のみを正定業とするものである。この③こそが、第十八念仏往生の願に基づく念仏である。
【資料】『聖光上人伝』、『授手印決答受決鈔』、『諸家念仏集』
【執筆者:曽根宣雄】
二
聖光が『徹選択集』において説示した法然の『選択集』の題中の「選択本願念仏」の語の中に込められるという三種の念仏義のことで、諸師所立の口称の念仏、善導所立の本願念仏、然師所立の選択念仏の三義。聖光は『徹選択集』上の冒頭で、『選択集』冒頭の「選択本願念仏集 往生之業念仏為先」という語について、第一に「念仏」の語について、「これ諸師所立の口称の念仏なり。故に題の次の行に〈南無阿弥陀仏〉と言うなり」(聖典三・二五九/浄全七・八三下)といい、第二に「本願」の語について「これ善導所立の本願念仏なり。故に題の次の行に〈南無阿弥陀仏〉と言うなり」といい、第三に「選択」の語について「これ然師所立の選択念仏なり。故に題の次の行に〈南無阿弥陀仏〉と言うなり」としてこの三義を説示している。さらに「この故に、本『選択集』の題中に、三重念仏の義有りといえども、ともに観念の念仏に非ず。ただこれ口称の念仏なり」(聖典三・二五九/浄全七・八三下)というがためにこの説が三重の念仏と称されている。この説によって、聖光が法然と善導を区別し、善導と法然の思想が共通するものではないという立場、さらには法然の説示に依って善導の説示には依らない立場に立っているという理解が成り立つのではないかという指摘がある。これに対し、この三重の念仏は『選択集』に説かれている念仏義は口称念仏の義であり、本願念仏の義であり、選択本願念仏の義であるということを説示するために説かれたもので、それぞれを別々に捉えるべき念仏義ではないという主張もある。
【資料】『徹選択集』(聖典三)
【参考】深貝慈孝「鎮西教学雑考」(『中国浄土教と浄土宗学の研究』思文閣出版、二〇〇二)
【執筆者:郡嶋昭示】