源空寺
提供: 新纂浄土宗大辞典
げんくうじ/源空寺
一
東京都台東区東上野。五台山文殊院。東京教区№二九三。慶長九年(一六〇四)の創建。開山霊門は米沢(山形県)佐竹一族白石氏に出生。檀林修学後、江戸神田に草庵を結び念仏弘通に励み、多くの在俗の帰依を集めた。これを聞いた徳川家康は慶長九年霊門を江戸城に召し、神田湯島に寺地を下賜し源空寺と号した。寺名の由来は、登城前夜の夢中に法然(源空)が現れ、霊門の日常の行業を褒め喜んだことによる。明暦三年(一六五七)の大火で類焼し現在の地に移転した。境内に家光寄進の銅鐘、伊能忠敬・幡随院長兵衛・谷文晁らの墓がある。
【資料】『浄土宗寺院由緒書』下(『増上寺史料集』七)、『江戸府内寺社書上』(『江戸浄土宗寺院寺誌史料集成』)
【執筆者:福田行慈】
二
大津市錦織。浄土山照円院。滋賀教区№四七九。円光大師御遺跡廿五箇所の番外札所。法然が大谷から坂本へ通ったときに休息したと伝える遺跡。霊沢の『円光大師御遺跡廿五箇所案内記』(明和三年〔一七六六〕刊)では当地に源空寺と号する堂宇があったが退転し、源空寺と銘のある大石のみ残っていたので、女人禁制の比叡山黒谷青龍寺巡拝のための女人堂を建立し、法然の遺跡として再興されることを願い番外の札所としている。安永九年(一七八〇)智成が掲げた山号額の裏面には、法然が一五歳で比叡山に登るときに休息した旧地で、元亨年間(一三二一—一三二四)頃舜昌が念仏の道場として開基して源空寺と号したとし、『近江国滋賀郡誌』では天明元年(一七八一)智成の中興を記す。しかし、名村愚仙の『円光大師御遺跡四十八所口称一行巡拝記』(文化一三年〔一八一六〕刊)では堂宇の記載はなく、円光大師御遺跡四十八所の番外札所にも入れていない。
【資料】『円光大師御遺跡廿五箇所案内記』(『藤堂恭俊博士古稀記念 浄土宗典籍研究』資料篇、藤堂恭俊博士古稀記念会、一九八八)、『近江国滋賀郡誌』(弘文堂書店、一九七九)
【参考】浄宗会編『円光大師法然上人御霊跡巡拝の栞』(知恩院、一九九六)
【執筆者:山本博子】
三
京都市伏見区瀬戸物町。宝海山法然院。京都教区№二七八。法然上人二十五霊場第一五番。建久六年(一一九五)法然が東大寺大仏殿落慶供養から帰京の途、木幡(京都府宇治市)船入の三井寺公胤の弟子忍空の草庵に逗留し念仏教化したので、忍空が源空寺と改めたと伝える遺跡。慶長年間(一五九六—一六一五)幡随意がキリシタン改宗のため九州に向かうとき、「張貫きの御影」に加護を祈請したといい、徳川家康から伏見廃城の殿舎を拝領して、寺地を現在地に移し開基となったという。また、法然が閑居したという炭山(宇治市)の光堂の旧跡を移したとも伝える(『拾遺都名所図会』四)。
【資料】『蓮門精舎旧詞』四四(続浄一九)、『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、霊沢『円光大師御遺跡廿五箇所案内記』
【参考】『京都府紀伊郡誌・伏見町誌』(臨川書店、一九七二)、『京都府寺社調査報告』一(京都国立博物館、一九八〇)【図版】巻末付録
【参照項目】➡法然上人二十五霊場
【執筆者:山本博子】