荻原雲来
提供: 新纂浄土宗大辞典
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おぎはらうんらい/荻原雲来
明治二年(一八六九)二月一〇日—昭和一二年(一九三七)一二月二〇日。迎蓮社接誉心阿。字は独有。世界的な仏教梵語学者。土橋次郎とサク夫妻の二男として四谷左門町(現・東京都新宿区左門町)で生まれた。幼名は竹次郎。明治一一年(一八七八)二月一〇歳のとき、鎌倉玉縄貞宗寺荻原雲台を師として得度、師姓を嗣いで荻原雲来と改名した。同一六年増上寺福田行誡から宗戒両脈を相承する。同一九年浄土宗学東京支校に入学、同二一年第二回浄土宗学本校入学選抜試験に合格し、同年九月浄土宗学本校に入学。同二九年七月浄土宗学本校正科を卒業、同年九月に内地留学生となり、翌三〇年一一月同校教授となった。同三二年には第一回浄土宗海外留学生に選ばれてドイツに留学、ストラスブルグ大学でロイマン教授に師事し梵語学を専攻、梵語仏典と漢訳仏典の対校にすぐれた学才を発揮して注目された。英国ケンブリッジ大学ベンドール博士により同大学図書館蔵の梵本を探索する機会を得て漢訳『瑜伽論』菩薩地に相当する写本を発見し、漢訳と対校して整理した。その業績は世界の梵語学界で知られることとなり、その論文をもって同三八年ドクトル・フィロゾフィーの学位を授与される、同年一〇月に帰国、東京の宗教大学教授となり小乗精要、俱舎論、梵語、パーリ語、印度宗教史を講じた。大正一五年(一九二六)大正大学の設立によって同大学教授となり昭和一二年に遷化するまで教鞭をとった。この間明治三九年(一九〇六)芝中学校校長、同四一年豊山大学講師、大正元年(一九一二)東京帝国大学講師、同四年淑徳女学校校長などを歴任。同九年浅草誓願寺の住職となり、同一一年文学博士、同一五年勧学および大正大学文学部聖語学研究室主任、昭和二年(一九二七)正僧正となった。梵語学、俱舎学、唯識学に精通し、特に仏教梵語では世界的権威であった。同一二年に病を得、同年一二月二〇日に没した。著書に『実習梵語学』『梵漢対訳仏教辞典』『印度の仏教』『梵蔵和英合璧浄土三部経』『梵文瑜伽師地論菩薩地』『梵文称友造阿毘達磨俱舎論疏』『称友造阿毘達磨俱舎論疏和訳』『梵文現観荘厳論に準拠せる般若波羅蜜多経釈』『改訂 梵文法華経』『釈迦牟尼聖訓集』『法句経和訳』『南伝大蔵経増支部経典一、二、三、四』『漢訳対照・梵和大辞典』。遺稿集『荻原雲来文集』がある。
【参考】荻原博士記念会編『独有雲来師余影』(大空社、一九九三)
【参照項目】➡荻原雲来文集
【執筆者:今岡達雄】