水谷幸正
提供: 新纂浄土宗大辞典
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みずたにこうしょう/水谷幸正
昭和三年(一九二八)四月一日—平成二六年(二〇一四)二月七日。白蓮社峯誉有阿清心。宗門功労者。佛教大学の近代化とその発展に努め、宗門にあっては、二一世紀にふさわしい宗政をもたらし、中国・韓国などの仏教界との友好を積極的に進めた学匠。現在の三重県伊賀市の不遠寺に、水谷弁正・隆の間に次男として誕生。戦時中は広島の陸軍幼年学校で学習し、終戦を迎えた。昭和二一年(一九四六)佛教専門学校に進み、卒業に際し浄土門主賞を受賞。ついで龍谷大学文学部に入学し、同二七年卒業の際、真宗の門主賞を受賞。芳村修基のもとで勉学し、師を助けて、日本で最初の『西蔵語辞典』(謄写版印刷)を出版した。その後の研究は、特に如来蔵思想を中心にして活躍した。一方で、ロシア語を駆使して、「西トルキスタンの仏教」等の翻訳もしている。広範な研究領域は佛教大学の代表として冠たるものがあった。旧制の佛教専門学校を戦後の学制改革に当たり新制大学にするために、学長の恵谷隆戒をはじめとして教員一丸となって改革にあたり、水谷はその筆頭となり奮闘した。最初期から、通信教育の課程を配置するなどして、佛教大学は大躍進することとなった。同三二年、佛教大学講師となり、同四二年に同教授、同五四年に五一歳で学長に就任、一〇年の間に強力な大学組織を構築した。とくに、四条センターの設立は、大学のあるべき姿を造りあげたといってよい。その間に、平成五年(一九九三)一二月、韓国のソウル市にある三星ギャラリーで、東国大学校と佛教大学を中心にして、日本から高麗仏画を一六点里帰りさせて、日韓仏教の「高麗仏画特別展」を開催させたことは、特筆に価する。その後、日韓文化交流委員となり、両国の交流に尽くした。一方において、中国仏教協会の趙樸初とも連携し、日・中・韓はもちろん、北朝鮮・台湾の仏教徒との友好交流を成功させ、勉学を志す仏教徒を佛教大学で研究させた功績は大きい。同六年、浄土宗総合研究所長を二期勤め、次いで、浄土宗宗務総長となった。二一世紀となり、それに合わせて、「浄土宗二十一世紀劈頭宣言」として、「愚者の自覚を/家庭にみ仏の光を/社会に慈しみを/世界に共生を」を提示し、法然の心を世界へとアピールし、宗門の持つ意義と実践を明らかにした。宗務総長を辞任するや、佛教大学に戻り、看護学部の設立に奔走、二条城の側近くに本部を置き、華頂大学、華頂短期大学、東山高等・中学校をも佛教教育学園の中に包括するに至った。この間、佛教大学理事長、相談役、東海学園理事長など多くの役職を勤めた。正僧正勧学。
【参照項目】➡佛教大学
【執筆者:石上善應】