平等
提供: 新纂浄土宗大辞典
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びょうどう/平等
すべて等しく差別のないこと。仏教は本来、平等を説く教えとされる。例えば、「生まれによって卑しい人やバラモンになるわけではない。行為によって卑しい人にもバラモンにもなる」(『スッタニパータ』一三六)とあるように、釈尊はヴァルナ(カースト)の差別を否定した。しかしながら、後には仏教にも、階級差別・女性差別・病気差別・障害者差別などの様々な差別がみられるようになる。法然以前の平安仏教にあっても、女性はそもそも男性に比べ成仏・往生しがたく、またできるとしても、一度男性に生まれかわってからというのが常識であった。さらに、当時は僧侶・貴族、経済力のある者は、いわゆる難行によって多くの善根を積んで成仏・往生を目指したのに対し、一般庶民が修し得たのは、易行である称名念仏などのみであり、しかもそれらは易行ゆえに劣った行と考えられていた。法然の『鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事』等には、「熊谷直実・津戸三郎は無智であるから法然上人は称名念仏のみを勧めた(趣意)」との噂が立っていたことが記されているが、このことから「称名念仏のような易行は無智の者のための行」というのが当時の一般的理解であったことがうかがえる。このように、法然以前にあっては、男女・貴賤・貧富によって、宗教的優劣が厳然と存在していたといえよう。そのような中、法然は専修念仏を打ち立てて、往生行を称名念仏に一本化した。しかもその称名念仏はいかなる者も修することができる易行であるので、すべての者が平等に救われることになる。『津戸の三郎へつかわす御返事』(九月一八日付)において「十方衆生の句にひろく、有智無智、有罪無罪、善人悪人、持戒破戒、賢愚、男女、…みなこもれるなり」(聖典四・四一六/昭法全五〇一)、また『往生浄土用心』には「すべて破戒も持戒も、貧窮も福人も、上下の人を嫌わず、ただ我が名号をだに念ぜば、…来迎せんと御約束そうろうなり」(聖典四・五四九~五〇/昭法全五五八)と説かれるとおりである。この考え方はときに「平等往生」という言葉で表されるが、ここでいう「平等」とは、宗教的優劣(行の優劣)を認めた上ですべての人が救われるという意味での平等ではない。たとえ智慧・経済力を有する者でも、無智・貧賤の者と同様、称名念仏するか否かという一点のみで往生の可否が定まるのであるから、そこには行そのものの優劣はなく、ひいては宗教的優劣もあり得ないことになる。また、この宗教的優劣がないということは、単に往生後の平等を意味するのみならず、現世で修する行に優劣がないわけであるから、現世での宗教的平等をも意味することになる。しかも、「王法・仏法、車の両輪の如し」と喩えられるほど、宗教界と世俗的世界が緊密に結びついていた当時の社会においては、宗教的平等をもたらすということは、世俗的世界での平等をもたらす可能性も有していたといえよう。
【参考】平雅行「法然の思想構造とその歴史的位置」「専修念仏の歴史的意義」(『日本中世の社会と仏教』塙書房、一九九二)
【執筆者:安達俊英】