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日野霊瑞

提供: 新纂浄土宗大辞典

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ひのれいずい/日野霊瑞

文政元年(一八一八)八月一〇日—明治二九年(一八九六)五月一三日。麟蓮社鳳誉亀阿眠龍。知恩院七七世、増上寺七一世、同七三世。松代藩真田家郷士丸山正信の子として、現在の長野市篠ノ井地区に生まれる。七歳のとき同市川中島・蓮香寺の斉誉仁説のもとで出家し順説と称した。文政一二年(一八二九)、増上寺掛錫かしゃくし、慈専寮に学んで霊瑞と改め、増上寺念成、同徳翁より五重・両脈を受け、天保八年(一八三七)勉学のため京都に至り諸宗の学匠に学ぶ。この年、大納言日野資愛すけなるの猶子となり徳善院と号した。弘化二年(一八四五)、増上寺に戻った後は学寮主となり、文久二年(一八六二)には学頭職に出世。同年一〇月、生実おゆみ大巌寺に住して明治維新を迎える。明治五年(一八七二)、教部省設置にともない大講義となり、太田大光院に住した。その後、権少教正から権大教正に進み、同九年三月には増上寺七一世となり、四月一日浄土宗管長に就任。浄土宗東西分裂をめぐる内紛や五山の一年交番管長制採用など複雑な問題が相次ぎ、翌年増上寺を辞して隠棲した。その後、再び増上寺に住し(七三世)、同二一年六月知恩院七七世に転昇、管長ならびに知恩院門跡を兼ねた。祖山が持つ多額の負債を返済するため諸国を親化し、篤信者外護を受けて祖廟を護持した。また、日清戦争が起こると一宗挙げての協力体制を宗内に呼びかけ、自身は老体をおして兵士を慰問した。同二九年に三重県巡教中に病気となり、西称寺(津市白山町)にて寂した。


【参考】藪内彦瑞編『知恩院史』(知恩院、一九三七)、阿部芳春編著『信濃名僧略伝集』(梓川書房、一九七六)


【執筆者:江島尚俊】