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善導大師像

提供: 新纂浄土宗大辞典

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ぜんどうだいしぞう/善導大師像

中国唐代の浄土教の僧・善導の彫像や絵像。善導は唐代に浄土教を大成したことで名高く、浄土五祖の一人にあげられる。法然善導による『観経疏』の影響を強く受けたことを、『四十八巻伝』には「遂に、『一心に専ら弥陀名号を念じ、行住坐臥に、時節の久近を問わず、念念に捨てざる、是を正定の業と名付く。彼の仏の願に順ずるが故に』の文に至りて…これによりて、承安五年の春、生年四十三。立ちどころに余行を捨てて、一向念仏に帰し給いにけり」(聖典六・五六)と記す。法然専修念仏善導から相承したことにより、善導は念仏教団において礼拝対象となる。これによって鎌倉時代以降、日本で善導大師像が多数制作され、浄土寺院を中心として安置されるようになった。あらわされる容姿の多くは、法衣袈裟くんを着して胸前で合掌しながら立もしくは坐し、顔はやや上向きで開口して念仏を称えるというものである。他に合掌せず払子ほっすを執るものもあるが、これらはすべて南宋期の中国画がその祖型と考えられている。また、他の高僧の肖像に見られない善導大師像特有の表現に、像表面を半金色にあらわしたものがある。これは、『四十八巻伝』に描かれた二祖対面の場面における善導の姿で、同資料の「そのさま、腰よりしもは金色にして、こしよりかみは墨染なり」(聖典六・七七)という記述に基づいている。この表現は、鎌倉時代末期頃に流布したと考えられている。浄土宗寺院では、彫像もしくは絵像として独尊像にあらわし、法然上人像と対をなして安置されることが多いが、真宗系の寺院では、親鸞真宗相承における祖師と定めた七人の高僧を描く「浄土七高僧像」内の一人としてあらわされることが多い。代表的な彫刻作例に知恩院像(国重要文化財)があげられるが、これは嘉禄元年(一二二五)から寛喜元年(一二二九)の間に制作されたであろうことが知られており、現在確認される善導大師像の中で最古の作例である。このほか奈良市来迎寺像(国重要文化財)や新潟県上越市善導寺像(県有形文化財)などが彫刻作例としては著名で、絵画作例では知恩寺蔵絹本著色善導大師像(国重要文化財)などがその白眉とされる。また、特殊なものとして南北朝時代に制作された知恩院所蔵善導大師曼荼羅図がある。


【参考】奈良国立博物館編『日本の仏教を築いた人びと—その肖像と書—』図録(一九八一)、水野敬三郎「総説 新潟の仏像(古代・中世)」(新潟県立近代美術館編『中越大震災復興祈念特別展 新潟の仏像展』図録、二〇〇六)、毛利久編『肖像彫刻』(『日本の美術』一〇、至文堂、一九六七)、梶谷亮治『僧侶の肖像』(『日本の美術』三八八、同、一九九八)【図版】巻末付録


【参照項目】➡善導半金色


【執筆者:藤田直信】