千中無一
提供: 新纂浄土宗大辞典
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せんちゅうむいつ/千中無一
専修念仏以外の者、すなわち雑修・雑行の者は、たとえ千人あっても一人も往生できないということ。善導『往生礼讃』の「ただ意を専らにして、作さしめる者は、十はすなわち十生ず。雑を修して至心ならざる者は、千の中に一もなし」(浄全四・三五七上)に基づく。この一文に注目した法然は、『選択集』においてこの文を含む一段を引用した上で、「この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや」(聖典三・一一三)と私釈する。これによるならば、「雑修」では絶対に往生できないが、「専修」であれば必ず往生できるということになる。だからこそ、雑修を捨てて専修を採るべきであると強く勧めるのである。ただし、『往生礼讃』では「千中無一」に先立って、専修であれば「百即百生」であるのに対し、雑修であれば「百時希に一二を得、千時希に五三を得」(浄全四・三五六下)とも述べる。こちらの説示の場合、雑修でもほんのわずかながら往生の可能性が存することになる。法然は主として漢語系の文献では「千中無一」を、和語系の文献では「百時一二、千時五三」を用いる傾向がある。良忠は『決疑鈔』において、この「百時一二、千時五三」と「千中無一」を会通して、雑行の者は普通「不至心」であるので、その者については「千中無一」となるが、雑行の者であっても「至心」の者はわずかながら存在し、その者は報土に往生できるので、それが「百時一二、千時五三」と表現されたとみなす(浄全七・二二五下)。また、別の箇所では、両者は「与奪」の関係であって、余行を行じないようにさせるために、「奪」として「千中無一」と説かれたとも述べている(浄全七・二二九上)。一方、西山派の行観も『選択集秘鈔』において同じ「与奪」の関係と見なすが、「百時一二、千時五三」は正雑二行の得失を比較するために述べられたものであって、最終的には「千中無一」に結すると説く(浄全八・三六六下)。
【参考】安達俊英「法然浄土教における諸行往生の可否—『選択集』第二章・第十二章を中心に—」(『仏教文化研究』四一、一九九六)
【執筆者:安達俊英】