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顕真

提供: 新纂浄土宗大辞典

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けんしん/顕真

天承元年(一一三一)—建久三年(一一九二)一一月一四日。平安末の天台僧で大原問答の主催者。葉室流の藤原顕能の子。梶井門主の最雲・明雲の弟子となり法曼流相実に灌頂を受ける。顕密兼学でとくに顕教中心に活動した。応保元年(一一六一)北京三会講師のほか法勝寺御八講・最勝講の講師、嘉応元年(一一六九)広学竪義探題などを経て、官位は権少僧都に進む。承安三年(一一七三)四三歳のとき法勝寺御八講講師を辞退し大原に籠居、その背景には延暦寺興福寺の紛争が考えられる。大原では龍禅院を住房とした。寿永元年(一一八二)源平合戦で荒れた世相の平和回復のため『法華経』の読誦書写を貴賤に勧進。翌年、明雲の賞譲で法印となるが出京せず大原に留まる。出離の方法に悩み、文治二年(一一八六)法然大原に招いて浄土教について教えを請うた。これが世にいう大原問答大原談義)である。籠居は一七年に及ぶが、建久元年(一一九〇)天台座主に補任され顕密の活動を再開。権僧正となり最勝講証義を二度、後白河院の病では五壇法中壇を勤める。座主在任中、病で没した。記家文献の『山家要略記』は顕真撰とされるが、編集には鎌倉末の義源が多く関わったとされる。


【資料】『天台座主記』


【参考】久保田収『中世神道の研究』(神道史学会、一九五九)、野本覚成「『山家要略記』の性格」(壬生台舜博士頌寿記念『仏教の歴史と思想』大蔵出版、一九八五)、善裕昭「天台僧顕真と大原談義」(『佛教大学総合研究所紀要』一三、二〇〇六)


【参照項目】➡大原問答


【執筆者:善裕昭】