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見性成仏

提供: 新纂浄土宗大辞典

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けんしょうじょうぶつ/見性成仏

自分に具わる仏になる可能性、すなわち自性清浄心を見極めて、仏果を悟ること。仏性は、単に教えにより知るものではなく、四六時坐禅をしたり日常生活における行いにより自覚するものであるとする。宝亮(四四四—五〇九)『涅槃経集解』三三に「案ずるに、僧亮曰く、見性成仏、即ち性を仏と為すなり」(正蔵三七・四九〇下)とされたのが最初である。後に「直指人心」の一句と合わせて、禅宗の常套句となった。『伝心法要』に「六祖云く、是の如しと。此の時に到って方に知る、祖師西来、直指人心、見性成仏言説に在らざることを」(正蔵四八・三八四上)とある。また、澄観の『華厳経疏』には、如来が、見性・無得・離妄という内浄三徳によって、法身般若解脱という涅槃三徳を得て成仏するとして、華厳宗見性成仏如来悟りの境地に相当するという。法然は『無量寿経釈』で「仏心宗の意に由りて見性成仏を以て別願と為せば、恵可、僧璨、弘忍、恵能は往生すべし。自余じよの諸宗の人は生ずべからず」(昭法全七一)と述べている。


【参考】入矢義高『伝心法要・宛陵録』(筑摩書房、一九六九)、張文良『澄観 華厳思想の研究』(山喜房仏書林、二〇〇六)


【参照項目】➡自性清浄心


【執筆者:林鳴宇】