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荻原雲台

提供: 新纂浄土宗大辞典

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おぎわらうんだい/荻原雲台

文政一一年(一八二八)七月八日—明治三六年(一九〇三)六月五日。心蓮社憐誉明阿。あざなは愍堂。宗政家であり、伝道者、教育者でもあった。伊賀国伊賀郡上野村(三重県伊賀市)に荻原明信の二男として生まれ、京都親縁寺の雲玉のもとで得度し雲台と改名した。増上寺法誉大真に師事して宗余乗を修めた。文久元年(一八六一)一二月大真の後をついで鎌倉玉縄貞宗寺の一五代住職となり、堂宇の再建や講筵を張った。また、広安真随や樹下信戒等とともに宗門の東西両部管長制の問題点を指摘し、東西統一による宗法の興隆につとめた。明治一七年(一八八四)四月には単身で伝道を志して北海道に渡り、同一九年一一月には寄留していた石狩法性寺種田竜瑞とともに石狩国札幌郡篠路村(札幌市北区篠路町)に龍雲寺を建立し初代住職となった。また、同二一年には石狩国厚田郡厚田村別狩(北海道石狩市厚田区別狩)に瑞龍寺を建立している。翌二二年三月師大真の遷化によって、両寺院の完成を見ずに帰京、その後は渡道することはなかった。同二三年三月に檀林浅草誓願寺住持になり、以来浄土宗学東京支校で講師浄土宗学本校では俱舎を講じ、同三〇年五月から同三二年八月まで浄土宗学本校(翌三一年八月には浄土宗高等学院と改称)の校長となった。同三六年春に病を得、六月五日に没した。漢詩をよくし、和歌を好み、能書をもって知られた徳僧であった。梵語学の荻原雲来はその高弟。


【執筆者:今岡達雄】