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徳巌

提供: 新纂浄土宗大辞典

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とくがん/徳巌

元禄九年(一六九六)—明和八年(一七七一)八月一〇日。聖蓮社明誉。いみなは智高。別号衣忍子。三河地方での浄土律宣揚に尽力。越中国伊波(富山県南砺市)の人。俗姓神谷氏。両親の反対を押し切り、一二歳にして岩察の許で出家。巌雪の勧めで増上寺に登り、雲臥の許で修学し、祐天に宗脈を、詮察戒脈を承ける。享保五年(一七二〇)綸旨りんじにより三河貞照院に入り諸堂・諸規則を整える。その後、思い立って京都聖臨庵に霊潭󠄂を訪ね、菩薩戒学を受け具足戒を授かる。霊潭󠄂没後聖臨庵を受け継ぐが、市塵に近いことを嫌い加賀国金沢に去る。やがて請われて再び貞照院に住し、道俗に菩薩戒日課誓約を施し戒律を弘宣する。宝暦二年(一七五二)に弟子玉淵に貞照院を譲り、三河国伊賀(愛知県岡崎市)に移り住む。弟子たちの尽力もあり弘律の道場として昌光律寺を開創し、ここにおいて浄土律を弘めている。


【資料】『略伝集』「昌光寺開山徳巌和上行実」(浄全一八)


【参照項目】➡昌光律寺


【執筆者:渋谷康悦】