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読誦

提供: 新纂浄土宗大辞典

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どくじゅ/読誦

声をあげて経を読むこと。ⓈvācyamānaⓈsvādhyāyaⓈsvadhyāyamāna。読経諷誦ふじゅ誦経じゅきょう看経かんきんともいう。経典は仏陀の教法を文章にまとめたもので、経典に対する基本的な態度を示したものに次のものがある。『法華経』七、陀羅尼品には「もし善男子善女人あり、能くこの経に於て乃至一の四句偈を受持し読誦し義を解し、説の如く修行すれば、功徳はなはだ多し」(正蔵九・五八中)とあり、『無量寿経』下には「たとい大火、三千大千世界に充満することありとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて、歓喜し信楽し、受持し読誦し、説のごとく修行すべし。…もし衆生あって、この経を聞く者は、無上道において、ついに退転せず」(聖典一・二八四~五/浄全一・三五)という経説がある。ここでは経典の受持と読誦と解義、そして修行することによって、得られる境地が説かれている。読誦の究極の目的は、原始仏教の『増一阿含経』四八に「彼の人、この法(十二部経)を誦し已りて深くその義を解し、以て彼の深義の法を解し、その教えに順従して違失するところなし。…法を誦する所以は、果に所願あり、この因縁によりて漸く涅槃に至る」(正蔵二・八一三上〜)とある通り、涅槃の証得にある。このことは大乗仏教においても変わりはない。大乗仏教では経典の読誦による効果が強調されるようになった。『大智度論』一〇には、「阿弥陀仏経」と「般若経」をめぐる読誦例がある。すなわち「一比丘あり。阿弥陀仏経及び摩訶般若波羅蜜を誦す。是の人死せんと欲する時、弟子に語って曰く、阿弥陀仏はかの大衆と俱に来ると、即時に身を動かして自ら帰し、須叟に命終すと。命終の後、弟子薪を積みこれを焼く。明日、灰中を見るに舌は焼けず。阿弥陀仏経を誦えるが故に。仏自ら来りて見、般若波羅蜜を誦えるが故に、舌は焼くべからず」(正蔵二五・一二七上)とあるのは、阿弥陀仏臨終来迎読誦した舌の不燃という奇瑞を示して経典読誦功徳を伝えたものである。経典読誦の目的は、元来教法の伝承にあるが、なによりも教義内容の正しい理解にあり、説かれたごとくに実践し、悟道を完成することにあった。なお中国で漢訳され日本に伝播した経典の読誦の意味に、祈願回向を目的とする傾向が加わった。善導観経疏』には五種の往生行として三部経読誦正行として定めている。


【参考】石上善應「初期仏教における読誦の意味と読誦経典について」(『三康文化研究所年報』二、一九六七)


【参照項目】➡五種正行


【執筆者:大南龍昇】