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「光徳寺」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:23時点における最新版

こうとくじ/光徳寺

新潟県村上市羽黒口。常照山法善院。新潟教区№六六。村上城主内藤侯の菩提寺であった。当山は奥州白川郡棚倉の常照山光徳寺に始まり、内藤信照が檀主となり、正保元年(一六四四)草創されたものである。開祖の源蔵は天正年間(一五七三—一五九二)、甲州常光寺城で内藤信成に謁し、次いで伊豆国韮山に随従して、常照山寺を建て、のち駿府まで従って報土寺を創立し、慶長二年(一五九七)入寂した。寺は代々の藩主の待遇甚だ厚く、堀直寄、榊原政邦男孫七郎、内藤信民の墓をはじめ、当臣下の墳墓がある。また江戸時代において当寺は触頭ふれがしらであった。


【資料】『諸檀林並拾七箇国触頭寺院連名帳』(一八二八)


【参考】『新潟県寺院名鑑』(新潟県寺院名鑑刊行会、一九八三)


【執筆者:中山祐昌】


三重県桑名市新町。鎮照山凝念院。伊勢教区№二。徳誉光然により天文六年(一五三七)に開創された。光然はのちに、知恩院二七世となっている。寺伝によると、当寺は源信により草創され、益田庄、泡州崎念仏道場と呼ばれていた。法然が遠江国桜ヶ池へ下向の際、当寺に立ち寄り、三日二夜の別時念仏を修したことから、光然が捨世念仏道場として再興し開山となった。第二次世界大戦後、長野善光寺から一光三尊阿弥陀如来本尊として勧請し、信州善光寺大本願伊勢別院として再興された。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、『円光大師法然上人御霊跡・巡拝の栞』、桑名市教育委員会編『桑名市史』本編六(桑名市教育委員会、一九八七)、『東海道名所図会』二


【参照項目】➡桜ヶ池光然


【執筆者:藤野立徳】