「定心見仏・散心見仏」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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− | [[定心]][[見仏]]とは、心の散乱を止め一境に専注した状態で、平生の時に[[念仏]]して仏を見ることをいい、[[散心見仏]]とは、日常的な散乱心のままに[[念仏]]して、臨終の時にいたって仏を見ることをいう。[[良忠]]『[[伝通記]]』四に「[[口称]][[念仏]]の機に二種有り。一つには定機、二つには[[散機]]なり。定機と言うは、[[口称]]の力に由りて[[定心]]発得して<ruby>方<rt>まさ</rt></ruby>に仏を見るなり。[[散機]]と言うは、[[散心]][[称名]]して臨終の時に至りて、方に乃ち仏を見て[[浄土]]に[[往生]]す」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0155 浄全二・一五五下]/[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V57.0536a.html 正蔵五七・五三六上])とあることによる。[[聖冏]]『<ruby>[[糅鈔]]<rt>にゅうしょう</rt></ruby>』は「[[観念]]門に[[九品]][[見仏]]を引くことは、定散異なりと雖も、[[見仏]]の義同じかるが故に、且らく引きて[[三昧]]の義に同じく定散に通ずるが故に」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J03_0374 浄全三・三七四下])とし、『[[観念法門]]』の説をもとに、[[見仏]]が定散に通じることを示している。また[[良暁]]も『[[浄土述聞追加]]』に「尋ねて云く、今の[[見仏]]の縁は[[定心]]の[[見仏]]に限るか、はたまた[[散心]]の[[見仏]]にも通ずるや。答う。定散の[[見仏]]に通ずべきなり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J11_0559 浄全一一・五五九上])といい、「[[弥陀]]の[[三念願力]]は平生臨終[[定心]][[散心]] | + | [[定心]][[見仏]]とは、心の散乱を止め一境に専注した状態で、平生の時に[[念仏]]して仏を見ることをいい、[[散心見仏]]とは、日常的な散乱心のままに[[念仏]]して、臨終の時にいたって仏を見ることをいう。[[良忠]]『[[伝通記]]』四に「[[口称]][[念仏]]の機に二種有り。一つには定機、二つには[[散機]]なり。定機と言うは、[[口称]]の力に由りて[[定心]]発得して<ruby>方<rt>まさ</rt></ruby>に仏を見るなり。[[散機]]と言うは、[[散心]][[称名]]して臨終の時に至りて、方に乃ち仏を見て[[浄土]]に[[往生]]す」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0155 浄全二・一五五下]/[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V57.0536a.html 正蔵五七・五三六上])とあることによる。[[聖冏]]『<ruby>[[糅鈔]]<rt>にゅうしょう</rt></ruby>』は「[[観念]]門に[[九品]][[見仏]]を引くことは、定散異なりと雖も、[[見仏]]の義同じかるが故に、且らく引きて[[三昧]]の義に同じく定散に通ずるが故に」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J03_0374 浄全三・三七四下])とし、『[[観念法門]]』の説をもとに、[[見仏]]が定散に通じることを示している。また[[良暁]]も『[[浄土述聞追加]]』に「尋ねて云く、今の[[見仏]]の縁は[[定心]]の[[見仏]]に限るか、はたまた[[散心]]の[[見仏]]にも通ずるや。答う。定散の[[見仏]]に通ずべきなり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J11_0559 浄全一一・五五九上])といい、「[[弥陀]]の[[三念願力]]は平生臨終[[定心]][[散心]]に通ずべし」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J11_0559 同])と述べている。 |
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【資料】聖冏『釈浄土二蔵義』、同『往生礼讃私記見聞』上 | 【資料】聖冏『釈浄土二蔵義』、同『往生礼讃私記見聞』上 |
2018年9月17日 (月) 10:08時点における版
じょうしんけんぶつ・さんじんけんぶつ/定心見仏・散心見仏
定心見仏とは、心の散乱を止め一境に専注した状態で、平生の時に念仏して仏を見ることをいい、散心見仏とは、日常的な散乱心のままに念仏して、臨終の時にいたって仏を見ることをいう。良忠『伝通記』四に「口称念仏の機に二種有り。一つには定機、二つには散機なり。定機と言うは、口称の力に由りて定心発得して方に仏を見るなり。散機と言うは、散心称名して臨終の時に至りて、方に乃ち仏を見て浄土に往生す」(浄全二・一五五下/正蔵五七・五三六上)とあることによる。聖冏『糅鈔』は「観念門に九品見仏を引くことは、定散異なりと雖も、見仏の義同じかるが故に、且らく引きて三昧の義に同じく定散に通ずるが故に」(浄全三・三七四下)とし、『観念法門』の説をもとに、見仏が定散に通じることを示している。また良暁も『浄土述聞追加』に「尋ねて云く、今の見仏の縁は定心の見仏に限るか、はたまた散心の見仏にも通ずるや。答う。定散の見仏に通ずべきなり」(浄全一一・五五九上)といい、「弥陀の三念願力は平生臨終定心散心に通ずべし」(同)と述べている。
【資料】聖冏『釈浄土二蔵義』、同『往生礼讃私記見聞』上
【執筆者:長尾隆寛】