「祐天」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ゆうてん/祐天
寛永一四年(一六三七)—享保三年(一七一八)七月一五日。明蓮社顕誉愚心。増上寺三六世。江戸時代中期に活躍した高僧で、将軍から庶民に至るまで、生仏として尊敬した。ことに大奥での帰依は格別であった。陸奥国石城郡(福島県いわき市)新妻重政の子。正保二年(一六四五)伯父増上寺内池徳院休波について上洛、袋谷檀通のもとで修行ののち諸国修行の旅に出る。名利を求めることなく、念仏布教に専心した。とくに質素な姿の布教と名号の授与は人びとに尊敬され、祐天のもとに参集するものが多かった。貞享三年(一六八六)増上寺から牛嶋に隠遁して念仏生活を続けたが、元禄一二年(一六九九)生実大巌寺(千葉県)住持となった。このとき桂昌院の帰依を得、翌年飯沼弘経寺住持となり、将軍徳川綱吉との関係もでき、宝永元年(一七〇四)伝通院住持となり、増上寺門秀、前大僧正了也・雲臥と同位の待遇を受け、江戸城で厚遇された。とくに祐天の法門論議は大奥にうけ、幕府から多くの贈物があった。正徳元年(一七一一)将軍家宣から増上寺住持を命ぜられて三六世となり、大僧正位に進んだ。ときに七五歳。ますます大奥の帰依は深まり、翌二年には御紋金襴の遺物を拝領。これで五条・七条・九条の袈裟を作り、法事あるいは登城のとき着用した。この年鎌倉大仏を中興し、一〇月一四日には黒本尊を守護して登城し、家宣の善知識となった。このほか高齢にもかかわらず幕府の行事に参加し、護持僧のような状態であった。同一三年には月光院に阿弥陀仏像を奉り、これが将軍家継の本尊となったばかりでなく、家継は譜脈(師資相承を記した系譜)まで授与されている。なお譜脈は天英院・法心院・蓮浄院などにも授与された。しかし老齢には勝てず、この年一一月に隠居を申請したが、認められず保養を勧められた。保養をしても健康がすぐれないため、正徳四年(一七一四)隠居が認められて真乗院に移り、のち一本松(港区元麻布)に隠居。享保二年(一七一七)芝西応寺から麻布竜土(港区六本木)に移り、翌年八二歳で入寂。
【資料】『祐天寺記録』『徳川実紀』、『略伝集』、『総系譜』中、『三縁山志』一〇
【執筆者:宇高良哲】