「菩提寺」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:32時点における最新版
ぼだいじ/菩提寺
一
一族代々にわたりその寺の宗旨に帰依し、葬式や追善供養などの法会を営み死者の菩提を弔う寺を称す。菩提所、檀那寺、香華院ともいう。藤原氏の興福寺などは菩提寺の早い例にあたり、江戸時代の檀家制度によって、菩提寺をもつことが一般の人々にも普及するようになった。知恩院や増上寺は、徳川家の菩提寺として知られている。現在の日本のほとんどの一般寺院は、菩提寺としての性格をもっている。
【執筆者:工藤美和子】
二
岡山県勝田郡奈義町高円。高貴山(諾山・槁木山などとも称した)。岡山教区№七。法然が九歳から一五歳(または一三歳)の比叡山登山まで修学した寺。役行者が開き、行基が十一面観音を安置したという。『十巻伝』一では漆間時国・秦氏夫婦は子の誕生を当寺の観音に祈ったとする。保延七年(一一四一)春、明石源内定明の夜襲で父が亡くなった後、法然は当寺に入り、院主であった母の弟の観覚得業の弟子となり、仏教の基礎を修学した。江戸中期から真言宗大覚寺末となるが、明治六年(一八七三)廃寺。同一〇年浄土宗として復興。境内には法然が銀杏の木の枝を逆さにさしたと伝える擂木銀杏と呼ばれる国天然記念物の大イチョウや、那岐山菩提寺研修センターがある。
【資料】『四十八巻伝』一、『四巻伝』一、『東作誌』三(『新訂作陽誌』六、作陽新報社、一九七五)
【参考】藤崎信哉「菩提寺史及立石家譜」(『摩訶衍』一一、一九三二)
【執筆者:山本博子】