明石源内定明
提供: 新纂浄土宗大辞典
あかしげんないさだあきら/明石源内定明
一二世紀中頃、生没年不明。源内武者ともいう。法然の父漆間時国に夜襲を仕掛け、法然出家の動機をつくったとされる人。美作国久米南条稲岡庄または稲岡北庄(岡山県久米郡久米南町と美咲町にかかる)の庄官(預所)であった。定明を預所に任命した荘園領主も不明であるが、「源内」は官職名で源姓の内舎人という意味である。内舎人は本来、禁中の護衛役であったが、平安時代末期には摂関家の護衛となり源平の武士も多く任命された(平内・源内)。この官職が正しいとすれば、彼は単なる地方武士ではなく在京経験のある武士であった。諸法然伝によると、定明の父は伯耆守(または権守)源長明とする。伯耆守は従五位前後の官職に相当し、下級武士とはいえない。『国司補任』によれば、この前後の伯耆守は藤原氏が独占しており、あるいは名国司か成功(買官)であった可能性が高い。『台記』に美作の住人で定明とその父定国なる者の名前が見られるが(康治二・七・二四)、定国は堀河天皇が崩じた嘉承二年(一一〇七)に馬允(従七位相当)に任ぜられ、その後北国渡海して没しているから別人と考えられる。諸法然伝によると定明の父は定国ではない。保延七年(一一四一)春、定明は久米郡の押領使であった法然(当時九歳)の父時国を夜襲し傷死させたが、このとき法然の射た矢が眉間にあたり失踪した。この事件を契機に法然は菩提寺観覚得業にひきとられ出家したという(『四十八巻伝』二)。久米郡押領使として国司の配下にあった時国と稲岡庄を管理する定明との紛争を、のちの法然伝が示すように定国配下の時国が主命を無視したために起こったのではなく、相次ぐ荘園整理令などに由来して、一二世紀当時とくに激しくなった荘園・公領の相克のあらわれとしてとらえ、近年、それが法然出家の直接の動機でもあるという見解がある。しかし、明石姓はおそらく東の隣国播磨の明石に由来する一族で、たとえ買官でも父は北の隣国伯耆の国司をも兼ね、定明は内舎人にも任じられた。彼らは単なる稲岡庄の庄官であるだけではなく、この地域に盤踞する豪族であったと考えられる。このような理由から、定明と時国に主従関係があったか否かはともかく、「定明を軽ずるに依りて、遂に対面せざりき、其遺恨なりとぞ」(『十六門記』浄全一七・二下)等と伝える伝記の説、つまり地域豪族に時国が挨拶しなかったことが抗争の理由であるという説も否定できない。
【資料】『四十八巻伝』一(聖典六)、『九巻伝』一、『十六門記』一(共に浄全一七)
【参考】赤松俊秀「中世仏教の成立」(『日本仏教史』Ⅱ中世篇、法蔵館、一九六七)
【参照項目】➡預所
【執筆者:小此木輝之】