「存貞」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ぞんてい/存貞
大永二年(一五二二)—天正二年(一五七四)五月一八日。鎮蓮社感誉願故。増上寺一〇世。浄土宗伝法の大成者、感誉流伝法の祖。相模国小田原に北条家臣山角氏の次男として生まれる。小田原伝肇寺(神奈川県小田原市)に入り得度し、はじめ増上寺天啓に師事し、ついで飯沼弘経寺祖洞より伝法を受け、のちに伝肇寺に住した。天文一七年(一五四八)北条氏繁は母大超院の菩提のため鎌倉岩瀬に大超寺(現・大長寺)を建立し、存貞を開山として招請した。その後まもなくして、甥にあたる存貞に帰依した川越城主大道寺政繁の母蓮馨尼(政繁の甥ともいう)は、平方村(埼玉県上尾市)に建立した宝池院(現・馬蹄寺)に存貞を転住させ、さらに川越城下の建立寺(現・見立寺)に招いたが、蓮馨尼没後の永禄元年(一五五八)政繁は母追善のため蓮馨寺を新たに建立し存貞を開山とした。蓮馨寺には多くの弟子が集まり、檀林の基盤が築かれた。同六年貞把より法灯を継承し増上寺一〇世となった存貞は、一山学侶粛正のために清規三三条を制定し、檀林教育の成果をあげた。また存貞は貞把と同様に聖冏にはじまる伝法を改革したが、略式に改めて弟子に伝授したので箇条伝法と呼ばれ、以後この流派は感誉流として浄土宗伝法の中心となっていった。同九年増上寺を辞して蓮馨寺に隠退し、天正二年五月一八日伝法伝戒弘通の遺言を残し遷化した。弟子に円也(増上寺一一世)、存応(増上寺中興)、清巌(岩槻浄国寺開山)らがいる。
【資料】『三縁山志』九(浄全一九)、『川越蓮馨寺志』(浄全二〇)
【参考】玉山成元『中世浄土宗教団史の研究』(山喜房仏書林、一九八〇)、『大本山増上寺史』(大本山増上寺、一九九九)
【参照項目】➡感誉流伝法
【執筆者:福田行慈】