「保元寺」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:32時点における最新版
ほげんじ/保元寺
東京都台東区橋場。帰命山薬王無量院。東京教区№三二七。宝亀元年(七七〇)に智海が里人の願いにより隅田川畔のこの地に大日阿字堂を建て「砂尾の石浜道場」と呼ばれ、平安時代の保元元年(一一五六)に年号を寺の名として「保元寺」と号した。鎌倉時代の弘安四年(一二八一)頃に時宗の宗祖・一遍が東北からの遊行の途次に保元寺にとどまったことが、『一遍聖絵』に残され、時宗二祖の他阿真教も嘉元三年(一三〇五)に保元寺を訪れ八月二三日一遍の命日に別時念仏会をしている。南北朝時代に合戦の地となり保元寺は荒廃したが、室町時代の永享年間(一四二九—一四四一)増上寺初代の聖聡が弟子の酉仰をして復興させ、初めて浄土宗となった。酉仰は増上寺二世となり、その弟子聖観が保元寺を整えて増上寺三世となった。一説には中興以来一一代の来誉念宗のとき年号を寺名とするのは幕府に遠慮ありとして字を代えて「法源寺」と読ませた。したがって江戸期の古地図、文書はみな法源寺となっている。大正時代に古名の保元寺に戻した。
【資料】『太平記』、『江戸名所図会』、『三縁山志』、『遊行誌』六七(時宗宗務所)
【執筆者:里見達人】