「時機相応」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:26時点における最新版
じきそうおう/時機相応
教えは時(代)と機(根)に相い応じていること。また、ある教えがそれの実行される時期(時)と、その教えの受け手(機)にふさわしいこと。特に末法の世においては、それにふさわしい教えを説かなければならないことをいう。道綽の『安楽集』に「若し教、時機に赴けば修し易く悟り易し、若し機教時乖きぬれば修し難く入り難し」(浄全一・六七三下/正蔵四七・四上)とあるのによる。法然は『選択集』一二で「諸行は機に非ず、時を失えり、念仏往生は機に当たり時を得たり、感応豈に唐捐ならんや」(聖典三・一七四/昭法全三四三)と述べ、人間の機根の衰退した末法の世である今時の人びとが往生できるのは、修し易く勝れた法門である念仏でなければならないとし、これを時機相応の教えであるとした。もともと仏教は、相手に応じて教えが説かれるという対機説法を特長とする。仏の教えは、機教相応にして時機相応であること、すなわち機(根)・教(義)・時(期)が齟齬することなく、相応することにおいて実現するとされる。
【参照項目】➡機教相応
【執筆者:藤本淨彦】