「聖観」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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しょうかん/聖観
一
一四世紀頃の名越派の学僧。生没年不明。真蓮社法阿、字は良天。名越派四世。下総国の出身。名越派三世で磐城郡矢ノ目如来寺開山の良山妙観について修学し、元徳二年(一三三〇)楢葉郡折木(福島県広野町)に知機山成徳寺を創建した。聖観は妙観同様、先師の口伝を伝承したとしつつ自説を主張した。聖観は特に『授手印』に関心が強く、『授手印決答聞書』『領解末代念仏授手印聞書』等の一連の著書を作り、名越派の正統性を主張した。名越派の伝書を収めた月形函は、尊観・明心・妙観の著書三十余巻を収録するといわれるが、聖観の著書『選択口筆見聞』『開題考文抄見聞』等も入っており、この四人の著書を名越派では重要資料ととらえていた。弟子には、大沢円通寺開山良栄理本、成徳寺二世良寂聖慶、源尊妙賢等がいる。著書に前記のほか『先師良山口筆』『良天口筆』『諸三心具不生論義』等がある。なお、一般に聖観の没年を応安二年(一三六九)とするが、『選択口筆見聞』を永徳元年(一三八一)八月中旬に清書し、『果分不可説』を同年九月五日に相伝し、さらに『果分考文抄見聞』を同年一〇月五日に良栄に伝授していることから、永徳元年までの生存は確認できる。したがって、聖観の生没年は不明とするのが妥当であろう。
【資料】『浄土惣系図』(野村恒道・福田行慈編『法然教団系譜選』青史出版、二〇〇四)、『総系譜』上(浄全一九)、『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)
【参考】玉山成元「浄土宗名越派の確立について」(『藤原弘道先生古稀記念史学仏教学論集』藤原弘道先生古稀記念会、一九七三)、広野町史編さん委員会編『広野町史』通史編(広野町、一九九一)
【参照項目】➡名越派
【執筆者:𠮷水成正】
二
応永二一年(一四一四)—文明一一年(一四七九)七月二日。定蓮社音誉。増上寺三世。近江国甲賀郡に望月外記幸俊の子として生まれる。七歳のとき、母方の一族青木氏に滅ぼされ、青木氏の養子となる。九歳のとき、滝村称名寺(滋賀県甲賀市甲賀町滝)運誉について出家し聖観と称す。一五歳にして諸国遊歴後、増上寺酉仰に師事し修学し、そののち諸国霊場を巡拝して摂津国兵庫の西光寺(現・藤之寺、神戸市兵庫区兵庫町)など多くの寺院を建立した。再び関東に戻り、酉仰の再建した法源寺(現・保元寺、東京都台東区橋場)の二世となり、また武蔵国都筑郡金河に慶運寺(横浜市神奈川区神奈川本町)を建立し、宝徳元年(一四四九)三月増上寺三世となった。詩歌にすぐれ、江戸城主太田持資(道灌)とは和歌を通じて親交があった。文明一一年七月二日遷化。弟子に愚底(小金東漸寺開山)、光冏(増上寺四世)、栄久(宇治平等院中興)らがいる。
【資料】『三縁山志』九(浄全一九)
【参考】『大本山増上寺史』(大本山増上寺、一九九九)
【執筆者:福田行慈】