「三願」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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さんがん/三願
阿弥陀仏の四十八願の中で、とくに注目すべき三つの願。1第十八(念仏往生)願・第十九(来迎引接)願・第二十(係念往生)願の三願。浄土宗義上ではこの三願を指す場合が多い。法然門流の間において、はやくからこの三願の解釈を巡って異論が生じ、諸行による往生などといった宗義上重要な問題につながった。法然は第十八願をもって「往生の規」「本願の中の王」(『選択集』聖典三・一三五/昭法全三二六)とし、四十八願の中心とし、第十九願は、第十八願の念仏の衆生を摂取し、来迎することを誓う願とし、また第二十願は、第十八願の念仏行者が係念していれば必ず往生できることを誓う願としている。つまり法然は、第十八願を中心として、その往生が確実であることや、来迎が必ずあることを三願をもって解釈している。一方、法然の門流は、たとえば長西は第二十願を「諸行往生願」と名づけ、諸行の報土往生を誓った本願として捉え、諸行が本願行であるとして諸行本願義を提唱しており、隆寛は『極楽浄土宗義』において、第十九願を、聖道門の行者が縁にあって浄土門に帰し、三心をおこして往生を遂げることを示す願とし、第二十願は自力の念仏および諸行を行じている者が回心して三心をおこして往生を遂げることを示す願としている。また親鸞は、隆寛の説を受け、三願について真仮分別を行い、第十八願を真実弘願、第十九願を方便要門、第二十願を方便真門とし、第十九願から第二十願、さらに第二十願から第十八願に転入するという三願転入説を説く。聖光や良忠においては、基本的に法然の説と同じであるが、良忠は『東宗要』において、第二十願について、過現門・現未門という説によって解釈している。すなわち過現門とは、願文の「植諸徳本」を過去、「至心回向」を現在、往生を得ることを未来として捉えることである。現未門とは、「植諸徳本」を現在、「至心回向」を未来、往生を得ることを第三生として捉えることであり、両者どちらにしても少なくとも三生の内に往生することができるとしている(浄全一一・四五下~六上)。2前述の三願の他に、曇鸞は第十八・十一・二十二の三願を挙げている。曇鸞は『往生論註』下において、まず第十八願の願力によって十念の念仏実践により往生するとし、第十一願によって往生の後、正定聚を得ることにより穢土へ帰ることがなくなり、第二十二願によって往生した菩薩が階位を順次に登ることを超え、すみやかに普賢菩薩の慈悲・利他の徳行を身につけることができるとしている(浄全一・二五五上~六上/正蔵四〇・八四三下~四上)。すなわち曇鸞はここで、往生以前・以後のすべての行が阿弥陀仏の本願力によるものであるとし、この三願をその証拠として挙げているのである。これを三願的証ともいう。
【資料】法然『三部経大意』、同『無量寿経釈』(共に昭法全)、聖光『西宗要』(浄全一〇)、道光『無量寿経鈔』四(浄全一四)
【参考】石井教道『選択集全講』(平楽寺書店、一九五九)、石川琢道『曇鸞浄土教形成論 その思想的背景』(法蔵館、二〇〇九)、石橋誡道『九品寺流長西教義の研究』(国書刊行会、一九三七)、林田康順『法然上人のみ教え—法然上人と親鸞聖人—』(浄土宗兵庫教区布教師会、二〇〇七)、平井正戒『隆寛律師の浄土教』(国書刊行会、一九八四)
【参照項目】➡三願転入
【執筆者:長尾隆寛】