「還愚」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:23時点における最新版
げんぐ/還愚
一
愚痴にかえることをいう。自分の愚かさを自覚することであり、還愚痴ともいう。法然は『諸人伝説の詞』において「まさに知るべし、聖道門の修行は智慧を極めて生死を離れ、浄土門の修行は愚痴に還りて極楽に生まる」(聖典四・四八一/昭法全六七二)と述べ、浄土門においては愚痴にかえることが重要であるとしている。また、法然が『往生大要抄』において、深心の信機信法について「始めに我が身の程を信じ、後には仏の願を信ずるなり。ただし後の信心を決定せしめんがために始めの信心をば挙ぐるなり」(聖典四・三一二/昭法全五八)と述べているように、罪悪生死の凡夫であり、出離の縁のない自分であるという自覚を有することによって、阿弥陀仏に対する真摯な帰依の念が生じるという信の構造も踏まえなければならない。『一枚起請文』には「一文不知の愚鈍の身に成して、尼入道の無智の輩に同じうして、智者の振舞をせずして、只一向に念仏すべし」(聖典六・六八九/昭法全四一六)と説かれているが、これはたとえ一代仏教を深く学んだとしても浄土往生のためには、驕り高ぶりを捨てて本願を信じてひたすらに念仏することが大切であるという、還愚の念仏者のあり方を示すものである。
【執筆者:曽根宣雄】
二
一六、七世紀の人。生没年不明。鑑蓮社森誉。幡随意の弟子。下総国佐倉清光寺に住したが、のちに館林善導寺四世に転じた。弟子に増上寺二三世の貴屋がいる。
【資料】『総系譜』上、『浄源脈譜』(共に浄全一九)、『館林善導寺志』(浄全二〇)
【執筆者:原口弘之】