「十念」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:26時点における最新版
じゅうねん/十念
一
一〇のことがらを心に思いとどめること。念仏・念法・念僧・念戒・念施・念天・念休息・念安般・念身・念死の一〇種(『雑阿含経』一)。心を落ち着かせる法として、上記の一〇種を思いとどめること。
【資料】『法苑珠林』三四
【執筆者:南清隆】
二
十声の称名のこと。『無量寿経』上の第十八願には「乃至十念」(聖典一・二二七/浄全一・七)と説かれ、『観経』下下品には「十念を具足して、南無阿弥陀仏と称す」(聖典一・三一二/浄全一・五〇)と説かれており、十念によって阿弥陀仏の浄土に往生できることが示されている。曇鸞は『往生論註』上において、十念とは念を積み、相続することであり、その数を知る必要性はないとしている。善導は『観念法門』や『往生礼讃』において、『無量寿経』の「乃至十念」を「我が名字(号)を称すること、下十声に至るまで」(浄全四・二三三上/三七六上)と解釈し、『観経疏』玄義分では、十声称仏は十願十行具足の念仏であるから十声一声みな往生を得るとしている。法然はこれらの善導の説を受けて、『選択集』三で『観経』や『大集月蔵経』の文を根拠に「声はこれ念なり、念はすなわちこれ声なる」(聖典三・一二二/昭法全三二一)として念声是一を説いている。さらに「諸師の釈には別して十念往生の願と云う。善導独り総じて念仏往生の願と云えり」(聖典三・一二三/昭法全三二一)と指摘して、善導は十念に、上は一生涯にわたる称名から、下は一声の称名に至るまですべてをおさめて念仏往生の説をたてたとしている。
【資料】『安楽集』上、『決疑鈔』二、『無量寿経鈔』三
【執筆者:長尾隆寛】
三
慈・悲・護法等の十念。『無量寿経』の第十八願にある「乃至十念」や、『観経』の「具足十念」に説かれる十念に関しての解釈の一つ。新羅・元暁の『無量寿経宗要』では、『弥勒発問経』(現存せず)を引用して聖者が阿弥陀仏国土に往生するための因行として修すべきものとする。
【参照項目】➡十念異解
【執筆者:南清隆】