「観音寺」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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かんのんじ/観音寺
一
三重県四日市市六呂見。補陀洛山勅願院。伊勢教区№二〇。後奈良・正親町・後陽成の三天皇勅願所。神亀四年(七二七)、小野の湊に出現した如意輪観音に帰依した聖武天皇が天平九年(七三七)に創建したと伝えられている。宝治二年(一二四八)良忠が京都から関東に下向の際に来寺して浄土宗に改めた。天文一二年(一五四三)後奈良天皇の勅願所となり、寺領七町を賜ったが、後に寺領が減少したので、正親町天皇は天正七年(一五七九)長島城主滝川一益に命じて寺領をもとに戻させた。天正一三年(一五八五)炎上、その後、後陽成天皇の勅願所とされた。文禄検地のとき、寺領は公的に没収され衰微したので、四日市代官水谷光勝を通じて徳川家康に訴願し、慶長一〇年(一六〇五)二〇石の朱印を寄せられた。この開創に由来する如意輪観音の像は、現在も本堂内にまつられているが、頭八つ、足が四本の霊鳥に乗った観音像で、四足八鳥観音と呼ばれている。
【資料】『蓮門精舎旧詞』一四、『鎌倉光明寺志』、『三国地誌』、『東海道名所図会』
【執筆者:水谷浩志】
二
大阪府吹田市南高浜町。高浜山円通院。大阪教区№二二八。寺伝によれば天平一〇年(七三八)、光明皇后の願により行基が聖観世音菩薩を本尊として開創した。もとは法相宗に属し、円通寺と号した。建永二年(一二〇七)法然が土佐へ配流の身となり、舟にて摂津・播磨を経て配地に向かう途路、高浜に泊まり、この寺に留まって念仏を弘通したという。応仁の乱で焼失したが、享禄二年(一五二九)に心誉が中興して浄土宗に転宗した。元禄一六年(一七〇三)に性誉が再興して今日に至る。この近辺を流れる相川に、もと舟着場があり、水難除けの船玉観音として船頭たちの信仰を集めた。
【資料】『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、『平成の道標』(大阪教区浄土宗青年会、一九九〇)
【執筆者:藤野立徳】