「釈尊」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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【参考】中村元『ゴータマ・ブッダⅠ』(『中村元選集〔決定版〕』一一、春秋社、一九九二) | 【参考】中村元『ゴータマ・ブッダⅠ』(『中村元選集〔決定版〕』一一、春秋社、一九九二) |
2018年9月17日 (月) 10:08時点における版
しゃくそん/釈尊
紀元前四六三—三八三年頃(生存年代には諸説あり)。仏教の開祖。中インドの北方、ガンジス川流域で活躍した人。Ⓢbhagavān Śākyamuni。釈迦牟尼世尊、釈迦、釈迦世尊、釈迦牟尼などともいう。浄飯王(シュッドーダナⓈŚuddhodanaⓅSuddhodana)と摩耶夫人(マーヤーⓈⓅMāyā)の長子。幼名は悉達多(シッダールタⓈSiddhārthaⓅSiddhattha)、姓を瞿曇(ガウタマⓈGautamaⓅGotama)という。釈迦牟尼は、釈迦族(ⓈŚākyaⓅSakkaⓅSakya)の聖者(muni)の意味で、世尊(bhagavat)は尊い人を表す。前四六三年頃ルンビニーで生まれ、カピラヴァスツの太子として育てられる。一六歳頃に耶輸陀羅(ヤショーダラーⓈYaśodharāⓅYasodharā)と結婚し、羅睺羅(ラーフラⓈⓅRāhula)が生まれる。なお、妻の名をバッダロッチャーやゴーパーとする経典もある。シッダールタは二九歳で出家し、三五歳で覚りを開き仏陀となり、その後、四五年間にわたり伝道の旅を続け、八〇歳で入滅した。釈尊が三五歳で開いた覚りと、その後伝道の旅で残した様々な教えが仏教の礎となり、さらに後世には、仏塔などを通して釈尊そのものへの信仰が発展し、仏教の教理は多様化していった。このような流れの中で、紀元前後には大乗仏教が興起し、大乗経典の編纂が始まったと考えられている。大乗仏教の編纂者たちは、経典の冒頭をそれまでの阿含経典と同様に「如是我聞」とし、経典の説示者を釈尊とした。これが、大乗非仏説論争を巻き起こすことになるが、インド国内をはじめ中国・日本・チベットでは多くの大乗経典を釈尊の直説として受容し、それぞれの教理を発展させた。このような中で、大乗仏教の一つである浄土教における釈尊の役割は、浄土三部経の説示にあり、衆生を西方極楽浄土へ向かわせる点にある。すなわち善導が『観経疏』玄義分において「仰ぎ惟れば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなわちかの国より来迎したまう」(聖典二・一六三/浄全二・二上)といい、『同』散善義の二河白道の説示において「仰いで釈迦発遣して西方に指向せしむる」(同二九九/同六〇下)というように、釈尊は、衆生をこの娑婆世界から西方極楽浄土に向かわせる仏であり、極楽世界から衆生を迎える阿弥陀仏と共に二尊とされる。浄土の教えはこの二尊によるものであり、玄義分冒頭に「今、二尊の教に乗じて、広く浄土の門を開かん」(聖典二・一六一/浄全二・一下)というのも、これを明かしたものであろう。法然はこのような善導の立場を継承しつつ『選択集』一六において、八種選択のうち「讃歎と留教と付属と、この三はこれ釈迦の選択なり」(聖典三・一八四~五/昭法全三四七)と述べ、阿弥陀仏や諸仏と同様に、釈尊もまた念仏の教えを選択していることを示している。このように浄土教、さらには念仏往生の教えが、釈尊の教法であることは、善導から法然に至る系譜の中で、理論的に確立され、浄土宗の基盤となっている。
【参考】中村元『ゴータマ・ブッダⅠ』(『中村元選集〔決定版〕』一一、春秋社、一九九二)
【執筆者:石田一裕】