「因順余方」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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【資料】『浄土頌義探玄鈔』下([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0641 浄全一二・六四一下]~二上) | 【資料】『浄土頌義探玄鈔』下([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0641 浄全一二・六四一下]~二上) |
2018年9月16日 (日) 10:11時点における版
いんじゅんよほう/因順余方
極楽浄土に人、天、声聞などの差別の名のある理由をあらわす言葉。阿弥陀仏の極楽浄土は本来平等の世界であって、そこにいる声聞・菩薩・天・人などのものはみな同じたぐいで、色、形に相違がないから世間でいうような区別した呼び名は必要としない。ただ浄土以外の他の世界(余方)で一般的に用いている言葉にしたがって(因順)天や人などというのである。これは『無量寿経』上に「その諸もろの声聞・菩薩・天・人、智慧高名に神通洞達し、咸同じく一類にして、形異状なし。ただ余方に因順するが故に、天・人の名あり」(聖典一・二四四/浄全一・一七)と説くのによる。聖冏はこれを『釈浄土二蔵義』で、「余方に因順するが故に天人の名あり」(浄全一二・三四三上)とするのを阿弥陀仏の教化の手だてとし、「虚無の身、無極の体」(同・三四三下)というのは他力の実体であるとしている。また曇鸞、義寂は因順の根拠を旧名、本業、居処によるなどと述べるが、聖冏は「但これ娑婆世界の人天三乗に因順して且らく人天等と説く、実には有名無実なり」(同・三四四上)としており、人間を救うための手だてとして説かれたものと言える。
【資料】『浄土頌義探玄鈔』下(浄全一二・六四一下~二上)
【参照項目】➡虚無之身無極之体
【執筆者:金子寛哉】