「煩悩」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ぼんのう/煩悩
苦しみを引き起こす原因であり、身心をわずらわせ、悩ませ、汚し、束縛し、覆う精神作用のこと。一般にⓈkleśaⓅkilesaⓉnyon mong paの訳。吉隷捨と音写し、惑、染などとも訳す。『入阿毘達磨論』下に「身心を煩乱逼悩して相続するが故に煩悩と名づく」(正蔵二八・九八四上)と述べられ、身心をわずらい乱し、苦しめるものと解釈している。人間は煩悩によって業を形成し、業の報いによって苦しみの生存(輪廻)に繫ぎ止められる。これを煩悩業苦(惑業苦ともいう)の三道という。故に、この煩悩を消滅させ苦しみの生存を超越することが仏教の目的でもある。初期経典には煩悩の語はあまり現れず、後に煩悩の種々な作用を表現する異名とされる、漏(漏れ出るもの)、暴流(押し流すもの)、繫(つなぎとめるもの)、軛(拘束)、取(執着)、蓋(覆い)、結(束縛)、垢(汚れ)などが用いられた。アビダルマ仏教以後は盛んに煩悩の語が用いられるようになり、その在り方の状態から随眠(潜在的状態)、纏(顕在的状態)などとも呼ばれた。『俱舎論』随眠品(正蔵二九・九八中~一一三中)では随眠に九八種、纏に一〇種あることが示され、一般にいう百八煩悩が明かされる。これは諸煩悩が三界(欲界・色界・無色界)それぞれに分かれて所属するものとして考えられたからである。代表的な煩悩として、貪(むさぼり)・瞋(怒り)・痴(ものの道理がわからないこと)・慢(自らを高くみるおごり)・疑(仏教の真理を疑うこと)・見(邪悪で誤った見解)を六大煩悩(または根本煩悩)といい、中でも貪・瞋・痴を三毒ともいう。この他にも見を五つに分けた十大煩悩、根本煩悩の第二義的な煩悩として随煩悩(枝末煩悩)という二〇種の煩悩が数えられる。大乗仏教の時代になると、元来さとりの妨げになるとされた煩悩が、そのままさとりの縁になると考えられるようになり、「煩悩即菩提」(『大乗荘厳経論』六、正蔵三一・六二二中など)と称されるようになった。また、「生死即涅槃」(『妙法蓮華経玄義』九上、正蔵三三・七九〇上中など)と対句で用いられることも多い。法然は善導の深心の釈文を「我らごとき煩悩をも断ぜず罪悪をも造れる凡夫なりとも、深く弥陀の本願を信じて念仏すれば十声一声に至るまで決定して往生する」(『往生大要抄』聖典四・三一二~三/昭法全五九)と解釈し、自らを煩悩具足の凡夫であると自覚し、煩悩を断ずることより阿弥陀仏の本願を深く信じて念仏することが大切であるとする。さらに、「浄土門というは浄土に生まれてかしこにして煩悩を断じて菩提に至るなり」(『登山状』聖典四・四九七/昭法全四二〇)として、浄土門は浄土に往生した後に煩悩を断じるのであるとする。
【参考】佐々木現順編著『煩悩の研究』(清水弘文堂、一九七五)、小谷信千代・本庄良文『俱舎論の原典研究—随眠品—』(大蔵出版、二〇〇七)
【参照項目】➡煩悩即菩提、生死即涅槃、百八煩悩、六煩悩、根本煩悩、三毒
【執筆者:榎本正明】