「入阿」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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にゅうあ/入阿
一
正治元年(一一九九)—弘安四年(一二八一)。一説には弘安八年(一二八五)寂。敬蓮社入西。聖光の門弟で、聖光の講義録『西宗要』の末尾(浄全一〇・二四二下)にこの講義の列席者として名前があり、筑後天福寺において良忠らと共に、宗義を相伝された人師とされている。長州の生まれで、はじめ一念義幸西に師事したが、建保二年(一二一四)に聖覚から真如堂で三心の正義を伝えられ、この説の正しいことを証明する人師を請い、聖光の門に入って一念義を捨てたという。その際、夢で聖光は善導の化身である様をみて、深く帰依したという。同じく聖光の門弟である修阿が提唱した、止悪修善こそ至誠心であるとする説に反論して論争となり、これによって聖光は安貞二年(一二二八)の往生院での別時を修し、『授手印』を著したとされる。入阿もこれに参加した。美声に長け、百千の衆を鼓扇したとされ、また『談義抄』一〇〇巻を撰述して鎮西の正義を伝えたとされる。その他に善導の五部九巻の著作に対する注釈書、『観経玄義分顕意抄』『往生礼讃要略記』などが入阿の著作とされているが、これらは長西の門弟入阿空寂のものとする説が有力である。聖光滅後は鎌倉に住し、在阿が往生浄土の正義を求めて入阿を尋ねたともされる。現在大本山善導寺境内に廟が安置されている。
【資料】『東宗要』四(浄全一一)、『鎮流祖伝』三(浄全一七)、『西宗要』六(浄全一〇)
【参考】中野正明「聖光門下敬蓮社入阿の浄土宗史上における役割」(『仏教論叢』三四、一九九〇)、坪井俊映「観経疏顕意抄の著者入阿について」(『金沢文庫研究』六四、一九六〇)
【参照項目】➡観経疏顕意抄、往生礼讃要略記、観念法門要略記、般舟讃要略記、法事讃要略記
【執筆者:郡嶋昭示】
二
—文安五年(一四四八)八月二六日。知恩院一八世。伝歴不明。
【参考】『華頂誌要』(浄全一九)
【執筆者:編集部】