「存応」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ぞんのう/存応
天文一三年(一五四四)一月一〇日—元和六年(一六二〇)一一月二日。貞蓮社源誉。諱は慈昌。諡号は普光観智国師。増上寺一二世。徳川家康の帰依を受け、近世浄土宗発展の基礎づけをした高僧。武蔵国多摩郡由木(東京都八王子市)に由木利重の二男として生まれた。天文二三年(一五五四)片山村(埼玉県新座市)の時宗宝台寺蓮阿のもとで剃髪受戒。永禄四年(一五六一)岩瀬大長寺(神奈川県鎌倉市)存貞のもとに入室、浄土宗に転宗して源誉存応と改名。天正二年(一五七四)存貞の死と同時に川越蓮馨寺を出て与野長伝寺に閑居し、師弟の教育に専念した。同八年増上寺円也より五重宗脈を受け、同一一年香衣の綸旨を賜り、翌年増上寺一二世となる。同一八年徳川家康が関東入国後まもなく関係をもち、増上寺は家康の菩提所となった。慶長元年(一五九六)には安心問答において政治的手腕を認められ、増上寺は関東本山鎌倉光明寺と同格になる。同三年増上寺を貝塚から芝に移し、同四年には紫衣の綸旨を賜った。同一三年増上寺は勅願所となり、常紫衣の綸旨を賜る。この年一一月、家康の命令により江戸城西丸で日蓮宗と宗論を行い、完勝して一躍有名となった。同一五年後陽成天皇から普光観智国師の諡号を賜り、名実ともに浄土宗の第一人者となり、増上寺の寺格も知恩院と同格になった。同一六年家康の命令で増上寺の大造営が行われ、以後数年の間に本堂・山門・経蔵など七堂伽藍が完成し、参集する弟子たちに下読法度を定めて教育に力を入れた。元和元年(一六一五)家康の命令によって作成した浄土宗規三十五箇条(元和法度)が下され、檀林制度が強化された。翌年四月、家康が臨終のときには駿府にかけつけて十念を授与し、遺言により増上寺で葬儀のとき導師をつとめ、境内に霊屋を建てた。同六年四月、愛弟子了的を後継者と定め療養につとめたが、九月頃より悪化し、一一月二日、七七歳で入寂。存応は家康の宗教政策を利用して増上寺を本山の地位に上げ、檀林制度の基礎を確立して宗内の全国寺院に号令を下し、教団の統制をはかった。著書には『論義浄土決択集』『浄土論蔵集』『十八通仏記』などがある。
【資料】『増上寺文書』、『大悲願寺文書』
【参考】玉山成元『普光観智国師』(白帝社、一九七〇)
【執筆者:宇高良哲】