雅成親王
提供: 新纂浄土宗大辞典
まさなりしんのう/雅成親王
正治二年(一二〇〇)九月一一日—建長七年(一二五五)二月一〇日。但馬宮雅成親王または六条(條)宮。父は後鳥羽上皇、母は修明門院藤原重子。生後間もなく宣陽門院が親王の養母となる。御子澄覚法親王は天台座主八四世・八七世を務める。討幕のために挙兵した後鳥羽上皇の承久の乱(承久三年〔一二二一〕)に参画して敗戦した後、但馬国に配流となった。配所より、聖覚・明禅・隆寛に称名念仏の肝要ならびに所作等について尋ねる手紙を送り、返信を受けている。また藤原定家『明月記』には、雅成親王が出家し、黒衣を身につけて配所脱出を試みたが失敗に終わったことが記されている(嘉禄二年〔一二二六〕一〇月一一日条)。建長七年、配所にて入滅。現在、兵庫県豊岡市高屋に雅成親王の墓所(宮内庁所管)がある。
【資料】「伏見宮御記録」正治二年九月一一日条/正治二年一一月三日条(『大日本史料』四—六)、『百錬抄』第一二・承久三年七月二四日条/第一七・建長七年二月一〇日条(『新訂増補国史大系』一一)、『明義進行集』(法蔵館、二〇〇一)
【参考】三田全信「『黒谷上人伝』(信瑞本)及び『明義進行集』(信行集)」(『成立史的法然上人諸伝の研究』平楽寺書店、一九七六)、石田松蔵「雅成親王」(同編『但馬史』二、のじぎく文庫、一九七三)、中野正明「法然義の伝承と但馬宮雅成親王」(『増補改訂法然遺文の基礎的研究』法蔵館、二〇一〇)
【執筆者:米澤実江子】