襄陽石刻阿弥陀経
提供: 新纂浄土宗大辞典
じょうようせっこくあみだきょう/襄陽石刻阿弥陀経
中国の襄陽(湖北省襄陽市)龍興寺に伝えられた石刻『阿弥陀経』のこと。本経は、元照『阿弥陀経義疏』や戒度『阿弥陀経義疏聞持記』に言及され、王日休『龍舒増広浄土文』一には「襄陽の石に刻む阿弥陀経は、すなわち隋の陳仁稜が書ける所、字画清婉にして人多く慕玩す。一心不乱より下に、専ら名号を持すれば、名を称するを以ての故に諸罪消滅す。即ち是れ多善根福徳の因縁なりと云えり。今世に伝える本、この二十一字を脱す」(浄全六・八四四下)と紹介されている。また本経の模刻が銭唐霊芝崇福寺に伝えられたという。法然は『選択集』一三において、この『龍舒浄土文』の一節を引用して念仏多善根説の典拠としている。なお、本経中の二一文字の脱文については、袾宏『阿弥陀経疏鈔』以来、後人による挿入であることが指摘されているものの、「敦煌写本阿弥陀経」にその存在が見出され、唐中期の頃までその成立上限が遡ると推定されている。日本においては、発願主である平重盛の没後、福岡県宗像大社にその模刻がもたらされ(国重要文化財)、その再模刻が百万遍知恩寺や東山正林寺に伝えられている。
【参考】金子寛哉「襄陽石刻阿弥陀経について」(『宗教研究』四七—三、一九七四)、同「敦煌写本阿弥陀経について」(『法然学会論叢』二、一九七八)、原田大六『阿弥陀仏経碑の謎 浄土門と宗像大宮司家』(六興出版、一九八四)、林田康順「法然上人と石刻『阿弥陀経』」(浄土宗新聞一九九九年一一月号)、同「法然上人における勝劣・大小・多少相対三義の成立について—〈念仏多善根の文〉渡来の意義—」(『宮林昭彦教授古稀記念論文集・仏教思想の受容と展開』一、山喜房仏書林、二〇〇四)
【執筆者:林田康順】