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蓮華王院

提供: 新纂浄土宗大辞典

れんげおういん/蓮華王院

京都市東山三十三間堂廻り町。通称は三十三間堂天台宗円光大師御遺跡四十八所の札所。元久元年(一二〇四)三月、後白河法皇の一三年御忌の仏事を土御門天皇が修したとき、法然が「浄土三部経」を書写し、能声の僧を選んで六時礼讃を勤め菩提を祈った遺跡。長寛二年(一一六四)後白河上皇の勅願により、院の御所の法住寺殿の西側に、平清盛が造営した千体観音堂がはじまり。後白河法皇の勅請で法然が『往生要集』を披講したとき、法皇は藤原隆信に命じて法然の真影を描かせ、本堂の北にあった宝蔵に納めたという。創建当時の本堂は建長元年(一二四九)に焼失、文永三年(一二六六)再興されたのが現本堂である。天正一四年(一五八六)豊臣秀吉の方広寺大仏殿創建により、当院は方広寺の山内寺院となるが、秀吉没後、方広寺が妙法院の管理下に移されるにともない当院も妙法院に属し、現在に至る。現本堂には本尊千手観音坐像・二十八部衆像・風神像・雷神像(以上国宝)・千体の千手観音立像(国重要文化財)を安置。本堂東側に法然塔と伝える名号石がある。正月の弓の引き初め儀式である「通し矢」は著名。


【資料】『四十八巻伝』一〇、『翼賛』一〇・五〇、『都名所図会』三、名村愚仙『円光大師御遺跡四十八所口称一行巡拝記』


【参考】『三十三間堂』(三十三間堂奉賛会、一九六一)、『京都府の近世社寺建築 近世社寺建築緊急調査』(京都府教育委員会、一九八三)、『新版古寺巡礼京都一八 妙法院・三十三間堂』(淡交社、二〇〇八)


【執筆者:山本博子】