相応寺
提供: 新纂浄土宗大辞典
そうおうじ/相応寺
一
横浜市神奈川区七島町。吉祥山恵光院。神奈川教区№一五。文明年間(一四六九—一四八七)に秀誉善公によって念仏道場として草創される。もとは横浜慶雲寺の末寺であり、当寺の山号は慶雲寺の山号を承けたもの。幕末から明治初期にかけて横浜子安の西蓮寺や浄念寺を合併した。明治・大正と大火・震災に見舞われたが、いずれも当時の住職の尽力により再建している。境内には子育地蔵尊や震災時に倒壊した閻魔堂を再興した釈迦堂などがあり、人々の信仰を集めている。
【資料】『新篇武蔵風土記稿』六七
【参考】『平成版浄土宗神奈川教区寺院誌』(神奈川教区教務所、二〇〇九)
【執筆者:沼倉雄人】
二
名古屋市千種区城山町。宝亀山公安院。尾張教区№一。寛永一九年(一六四二)尾張藩祖徳川義直の開基。開山は眼誉吞屋。義直は母である相応院殿大法尼(家康側室於亀方)の菩提のため、現在の同市東区山口町に一万二千坪の寺域を定めて一宇を建立、相応院の帰依篤い高岳院住持の吞屋を開山とし、寺領三〇〇石を与えた。在住四年の後、吞屋は金戒光明寺に移る。以来当寺は尾張・紀伊両徳川家の菩提所となり、住持は両家より任命された。本尊阿弥陀如来は源信作と伝えられ、楼門の額は義直の筆。
【資料】『蓮門精舎旧詞』一六(続浄一八)
【執筆者:水谷浩志】