本門の弥陀・迹門の弥陀
提供: 新纂浄土宗大辞典
ほんもんのみだ・しゃくもんのみだ/本門の弥陀・迹門の弥陀
阿弥陀仏を天台の本門・迹門に分けて捉えたもので、一念義を唱えた成覚房幸西の主張とされる。『四十八巻伝』二九に「浄土の法門を、もとならえる天台宗にひきいれて、迹門の弥陀・本門の弥陀ということをたてて、十劫正覚といえるは、迹門の弥陀なり。本門の弥陀は、無始本覚の如来なるが故に、我等所具の仏性と、まったく差異なし。この謂を聞く一念に事足りぬ。多念の遍数、甚だ無益なり」(聖典六・四五三)とあるのがそれで、本門の弥陀と人間の仏性が同体といういわれを知るだけでよいという。この記述を根拠に幸西が天台教学の影響を受けたと指摘されてきた。しかし幸西の執筆が確実な著書『玄義分抄』にこのような阿弥陀仏観はうかがわれず、一実真如の機は存在しないと一切衆生の得悟を否定して内在の弥陀を語ることはなく、両者は矛盾する。『四十八巻伝』の記述は、おそらく鎌倉後期に一念義が思想的実質を失ったころ、天台教学と結び付けられ記されたのであろう。
【参考】神子上恵竜「宗祖と法然門下との思想交渉—幸西と親鸞」(『龍谷大学論集』三五七、一九五七)、善裕昭「幸西の弥陀本迹二門説について」(『仏教論叢』三二、一九八八)
【参照項目】➡本門・迹門
【執筆者:善裕昭】