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悪人正機

提供: 新纂浄土宗大辞典

あくにんしょうき/悪人正機

「悪人こそが阿弥陀仏本願正機(=第一次的な救いの対象)である」との意。その場合、善人は必然的に傍機(=二次的な救いの対象)となるので、換言すれば、「善人も救いの対象とはなるが、阿弥陀仏の主たる救いの対象は悪人である」とする考え方といえる。既に「凡夫正機」の考え方は、中国の迦才かざい浄土論』の「浄土宗の意は、もと凡夫のため、兼ねて聖人のため」(正蔵四七・九〇下)や、新羅の元暁作と伝える『遊心安楽道』の「浄土の奥意、本凡夫のためにして、菩薩のために非ず」(正蔵四七・一一九中)、さらには法然『十二の問答』の「かかるひら凡夫のためにおこしたまえる本願」(聖典四・四三五/昭法全六三四)などに明確に見られるが、「悪人正機」も法然の段階で既に説かれていたものと見なしうる可能性が高い。なぜなら、『禅勝房との十一箇条問答』の「かくの如きの罪人を度せんが為に発すところの本願」(昭法全六九八)や『念仏往生要義抄』の「世すでに末法になり、人みな悪人なり…しかるに阿弥陀ほとけの本願は、末代のわれらがためにおこし給える願なれば」(聖典四・三二二~三/昭法全六八一~二)といった法然法語は、間接的ながら、悪人こそが第一次的な救いの対象であることを説くものと見なしうるからである。よって、法然が「悪人正機」の思想を有していた可能性は十分にあるといえる。ただし、普通、「悪人正機」として知られるのは、親鸞述『歎異抄』三の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(真聖全二・七七五)の文言である。先の一般的な悪人正機もこの『歎異抄』の悪人正機も、悪人を正機とする点では同じであるが、往生がより容易であるのを、前者では善人、後者では悪人とする点で相違がある。この後者の悪人正機は『歎異抄』に現れるので、長らく親鸞が創始した真宗の思想を代表する概念とされてきた。ところが、大正時代に発見された法然遺文集である『醍醐本』の「三心料簡および御法語」二七条に「善人なほもて往生す、いはんや悪人をやの事〈口伝これあり〉」(昭法全四五四)といった、『歎異抄』とほぼ同一の文言が含まれていたため、その創唱者は法然ではないかという議論がおこった。さらに、覚如の『口伝抄』一九(真聖全三・三一~二)にも悪人正機法然に始まることを示唆する文言があり、法然創唱説が強く主張されるに至った。ただそれにもかかわらず、法然は『一紙小消息』の「罪人なお生まる、いかにいわんや善人をや」(聖典四・四二一/昭法全五〇〇)という文言から知られるとおり、基本的に善人の方が往生しやすいという立場に立っていたことや、「三心料簡および御法語」の資料的信憑性からして、法然創唱説に対しては反対意見も根強い。そのような中で、地蔵菩薩等に関する救済ながら、悪人こそがその救済正機で、しかも悪人の方が救われやすいことを説く文献が既に法然在世中に見られる事実や、親鸞以降には西山浄土宗などでも悪人正機が説かれていた事実が指摘され、それが親鸞浄土真宗以外でも説かれていた思想であることが明らかとなっている。一方、この創唱者の問題と同時に、『歎異抄』の件の一文をどう解釈するかという問題も長らく検討されてきた。すなわち、『歎異抄』の善人・悪人観は一般的な悪人正機文献の善人・悪人観と異なることが指摘され、その検討結果に基づいて、『歎異抄』の悪人正機は「自身が悪人であることを自覚していない自力の善人でも化土往生できる、まして自身が悪人であることを自覚して他力をたのみたてまつる悪人は真実報土往生できる」と理解すべきであるとの説が示されている。ただしその一方で、もっと単純に解釈すべきだとする見解もある。また『歎異抄』の悪人正機の思想的価値については、素晴らしい思想として肯定的にとらえられることが多いが、逆に造悪無礙むげを承認するかのごとき教えであるので好ましくないとする意見もある。


【参考】平雅行『日本中世の社会と仏教』(塙書房、一九九二)、梶村昇『法然の言葉だった「善人なをもて往生をとぐいはんや悪人をや」』(大東出版社、一九九九)、安達俊英「悪人正機」(『日本仏教の研究法 歴史と展望』法蔵館、二〇〇〇)、松本史朗『法然親鸞思想論』(大蔵出版、二〇〇一)


【参照項目】➡悪人往生


【執筆者:安達俊英】