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来迎寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

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らいこうじ/来迎寺

千葉県香取市貝塚。東光山宝樹院。千葉教区№九五。寛治六年(一〇九二)千葉常将の開基。もとは香取郡平山村字夏海(千葉県香取市)に創建されたが、建久九年(一一九八)現在の地に釈迦堂を移転し、明恵を請い開山とした。円仁作の阿弥陀如来像、源信作の内仏法然の真筆名号幡随意の雨乞名号などが伝来していたとされるが現存しない。源頼朝が鹿島神宮に参拝のおり、当寺に憩いの場を構えたという伝承もある。境内には源氏三将軍墓碑や、徳川家斉の書院番であった松平忠寛の室おふうの墓(清心院円誉理月大信女墓碑)、嘉元四年(一三〇六)の三尊来迎仏の板碑などがある。


【資料】『飯沼弘経寺志』(浄全一九)、『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【参考】『良文村誌』(菅佐原源治郎・岩堀角次郎、一九五一)、『千葉県浄土宗寺院誌』(千葉県浄土宗寺院誌刊行委員会、一九八二)


【執筆者:杉山裕俊】


甲府市東光寺聖衆摂取院。山梨教区№一六。永禄七年(一五六四)晃誉然光(然公とも、『甲斐国志』は貞吟)の開山。武田信玄の開基。創建時は古府(相が原と伝えられる)にあったが、文禄年間(一五九二—一五九六)甲府築城により現在地に移転した。本尊阿弥陀如来は、もと鎌倉鶴岡八幡宮の本地仏として社内に安置されていた快慶作と伝えられる。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、『甲斐国志』七三(『甲斐叢書』一一)


【参考】『甲府市史』通史編第一巻原始・古代・中世(甲府市、一九九一)


【執筆者:𠮷水成正】


富山市梅沢町。光明山。富山教区№四九。開山は林海。創建時は真言宗円福寺と号し、立山たてやまの別当であったと伝える。建久八年(一一九七)法然弟子光明房の北国弘通のとき、宗要を談じ共に上洛し弟子となり、改宗して寺号来迎寺とした。のち北国念仏弘通道場として重要な役割を果たした。寛文元年(一六六一)現在地に移転。越中国触頭ふれがしらの一寺であった。本尊阿弥陀如来立像・絹本著色騎獅文殊菩薩像は県文化財。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』下(『増上寺史料集』七)


【執筆者:中野真理子】


長野県飯田市伝馬町。白雲山紫雲院。長野教区№二一八。承元二年(一二〇八)伊予国大洲おおずの城主脇坂家の位牌寺として創建したことを開基とする。元和三年(一六一七)脇坂淡路守安元が飯田に国替えの際、当時の住職である召連貞誉も脇坂氏に随行し現在の地に移築し中興開山する。当寺は、峯高寺・柏心寺・西教寺との四箇寺で知恩院増上寺両方の触頭ふれがしら職であった。


【資料】『蓮門精舎旧詞』二六(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【参考】宇高良哲「浄土宗の触頭制度について—特に触頭の諸国分布を中心に—」(印仏研究二九—一、一九八〇)


【執筆者:兼子道雄】


大阪府守口市佐太中町。紫雲聖衆院。大阪教区№二六九。正平二年(一三四七)実尊の開創。南朝の後村上天皇の勅願所となり、実尊も常紫衣綸旨をうけた。初め、実尊の生まれた大庭の庄に建立されたが応永三年(一三九六)以降諸所に移転し、延宝六年(一六七八)三〇世慈光のとき現在地に移った。江戸時代には大念仏宗佐太派本山として御白書院独礼の格式を有した。明治五年(一八七二)から浄土宗佐太派と称し、同二二年横浜市小机泉谷寺檀林号を移し、派名を取り消して檀林に列し、伝灯付法道場となった。


【執筆者:宇高良哲】


香川県丸亀市本島ほんじまとまり聖衆引接院。南海教区№二一。円光大師御遺跡四十八所の番外札所。法然建永の法難で流罪の途中に滞在し念仏教化した遺跡と伝える。建永二年(一二〇七)法然は讃岐国塩飽しあくの地頭高階保遠たかしなのやすとお入道西忍の館に逗留の折に当地にも滞在したという。その後、和泉国堺の心誉善徳という道心者が、霊夢によって法然の旧跡を尋ね来て草庵を結び、永禄年間(一五五八—一五七〇)に下野国足利三宝院の汲誉大中が当地に移り、念仏弘通ぐずうして当寺を造営し中興開山となる。


【資料】『蓮門精舎旧詞』三六(続浄一九)、『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)、名村愚仙『円光大師御遺跡四十八所口称一行巡拝記』


【参考】浄宗会編『円光大師法然上人御霊跡巡拝の栞』(知恩院、一九九六)、『配流八〇〇年追恩 讃岐の法然上人』(浄土宗南海教区教務所、二〇〇七)


【執筆者:山本博子】


愛媛県今治市山方町。清浄山高照院。愛媛教区№八。福島氏が今治藩主の当時、福島左衛大輔正則の菩提寺で、江戸後期の記録によると伊予国触頭ふれがしらであったとされる。開山は元亀元年(一五七〇)に遷化した登蓮社運誉及願のようだが移転移住の経緯があり、それ以前の開創の可能性もある。


【資料】『蓮門精舎旧詞』三六


【参考】宇高良哲「浄土宗の触頭制度について」(『法然浄土教の綜合的研究』山喜房仏書林、一九八四)


【執筆者:郡嶋昭示】


福岡県みやま市瀬高町上庄。正覚聖衆院。福岡教区№二三七。開基は不明。一説には聖徳太子の時代に創建、つまり九州最古の寺院で、福岡全域とその周辺まで末寺があったと伝える。古くは瀬高寺という寺号で、天正年間(一五七三—一五九二)兵火のためすべて焼失。天正一五年(一五八七)方誉専興がこの来迎寺の再興を発願し、中興開山となる。江戸末期(万延元年〔一八六〇〕頃)現在の本堂が再建された。


【資料】『蓮門精舎旧詞』三九(続浄一九)


【参考】瀬高町教育委員会編『瀬高町誌』(瀬高町、一九七四)


【執筆者:金田昭教】


神戸市兵庫区島上町。経島山不断院。築島寺つきじまでらともいう。浄土宗西山禅林寺派。平清盛は、日宋貿易で巨万の富を築き、海外との交易に情熱を注いだ。そのための一大事業が、大輪田泊おおわだのとまりの改築と人工島(経ヶ島)の築造であった。その際に海神の怒りを鎮めるため、人柱として人身御供に進んで申し出たのが、清盛の侍童一七歳の松王丸であった。応保元年(一一六一)、千僧読経のうちに松王丸は海底に沈み、造営は完成。その松王丸の菩提を弔うために当寺が建立されたという。


【参考】『神戸の史跡』(神戸市教育委員会、一九七五)


【執筆者:明石和成】


一〇

千葉市稲毛区轟町。知東山聖聚院。単立。建治二年(一二七六)千葉貞胤の開基一遍開山により時宗寺院として創建されたという。もとは来光寺と号して千葉郡道場北(千葉市)にあり、藤沢(神奈川県)清浄光寺末寺であった。天正一八年(一五九〇)に徳川家康の援助を受け、知恩院二九世満誉尊照が中興し浄土宗寺院となった。同年に朱印五〇石を賜る。明治一四年(一八八一)の火災により中興時の建造物を焼失。昭和二〇年(一九四五)の空襲により現在の地に移転し復興、その後、単立寺院となった。境内に千葉貞胤以下七基の追善供養五輪塔がある。


【資料】『蓮門精舎旧詞』四七(続浄一九)、『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【執筆者:杉山裕俊】