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聖徳太子

提供: 新纂浄土宗大辞典

しょうとくたいし/聖徳太子

敏達びだつ天皇三年(五七四)—推古天皇三〇年(六二二)二月二二日。「聖徳太子」とは没後の呼称であり、本名は厩戸皇子うまやとのおうじ。また、「上宮之厩戸豊聡耳命うえのみやのうまやとのとよとみみのみこと」(古事記)、「上宮厩戸豊聡耳太子かみつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこ」(推古紀)、「豊耳聡聖徳とよみみとしょうとく」「豊聡耳法大王とよとみみののりのおおきみ」「法大王のりのうしのおおきみ」(以上用明紀)、「上宮聖徳法王かみつみやのしょうとくのりのおおきみ」(上宮聖徳法王帝説)など、数多くの呼称がある。父は用明天皇、母は皇后穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのおうじょ。推古天皇元年(五九三)、厩戸は推古天皇によって摂政に任命され、冠位十二階制定や十七条憲法作成などを行った。また仏教興隆にも熱心であり、四天王寺や法隆寺を建立するのみならず、高麗僧恵慈えじ仏教を学んだ結果、三経義疏さんぎょうぎしょを執筆できるほどの高度な仏教理解を有したとされる。ただし、以上の事績には後世の潤色が加わった部分も多い。特に平安時代以降は伝説化・神格化が著しく進展した結果、法隆寺四天王寺など太子ゆかりの寺院を中心に「聖徳太子信仰」が盛んになった。その一方、現在に至るまで厩戸皇子の実像や事績をめぐる盛んな議論が展開されている。


【資料】『日本書紀』二一・二二、『上宮聖徳法王帝説』


【参考】坂本太郎『聖徳太子』(『人物叢書』一七八、吉川弘文館、一九七九)、大山誠一『〈聖徳太子〉の誕生』(『歴史文化ライブラリー』六五、同、一九九九)、吉村武彦『聖徳太子』(岩波新書七六九、二〇〇二)、曽根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』(『歴史文化ライブラリー』二二八、吉川弘文館、二〇〇七)


【参照項目】➡太子信仰法隆寺三経義疏


【執筆者:冨樫進】