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明曠

提供: 新纂浄土宗大辞典

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みょうこう/明曠

—唐・武徳六年(六二三)。中国河南洛陽の人。儒学を伝える家に六人兄弟の第四子として生まれる。父のこうは隋朝に仕えて臨淄りんしの令となり、その治政は善く行われた。一七歳のときに出家し、「操行貞固」であり、「志懐明約」であった。初め『大智度論』および『僧祇律』を学び、深く空や有の道理に通じた。その教えを受けた者は百余名にも達し、禅観やその他の著作も著し、当時著名であった。洛陽浄土寺に住した。武徳六年の秋八月遷化するや弟道岳が嘆き悲しんだことを『続高僧伝』「道岳伝」(正蔵五〇・五二七上~八下)に伝えている。


【資料】『続高僧伝』一三


【執筆者:金子寛哉】


八世紀頃、生没年不明。中国浙江省台州府黄巌県の人。若くして出家天台山国清寺で修学。唐・大暦一二年(七七七)三章(童)寺で『菩薩戒経疏刪補』三巻を著し、その他にも著作が多い。『宋高僧伝』六・元浩伝によると、「後に行満、道暹、明曠あり、皆著述して天台の道をひろむ」(正蔵五〇・七四〇下)とあるため、荊渓湛然門下の元浩との関わりから考えても湛然の門下と考えられる。法然は『無量寿経釈』の往生別願の釈で、「次に梵網の意に由って、五十八戒を以て、別願と為さば、恵威明曠は生ずべし、諸宗の人は生ずべからず」(昭法全七二)とあげ、『浄土初学抄』大乗律宗の項では『梵網経疏』一巻の作者としてあげ、「但し明曠等の疏の中に、持戒行の徳を以て極楽回向する有り。是れ則ち本律の意に非ず、傍ら観経等の意に依て、戒行を以て極楽回向する也」(昭法全八三九)と述べている。なお、『逆修説法』等に観経十二観成就の人としてあげるのは明瞻みょうせんとの混乱、もしくは伝承中の誤写であろう。


【資料】『宋高僧伝』六(正蔵五〇)、『無量寿経釈』『浄土初学抄』『逆修説法』二七日(共に昭法全)


【参考】金子寛哉「法然上人引用の明曠について」(『仏教論叢』二四、一九八〇)


【参照項目】➡明瞻


【執筆者:金子寛哉】