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湛然

提供: 新纂浄土宗大辞典

たんねん/湛然

唐・景雲二年(七一一)—建中三年(七八二)二月五日。俗姓は戚氏。荊渓けいけい尊者、妙楽大師と称され、宋の開宝年間(九六八—九七六)に、呉越王の銭氏より円通尊者の諡号も下された。中国天台の史伝書の多くは、湛然を天台の九祖と記したが、開祖の智顗から数えると六祖に当たる。晋陵郡荊渓(江蘇省宜興市)に生まれ、二二歳頃に天台の左渓玄朗に出逢い、天台の教えに傾いた。天宝七年(七四八)三七歳で出家し、その後、天台三大部の注釈などを著し、禅・華厳・法相の各宗に対抗できるように、智顗の天台教学の発揚に尽力し、天台の教理体系を一層完備した。建中三年二月五日、天台山仏隴ぶつろう道場入滅。中国の史伝書には記載がないが、『四十八巻伝』の編者舜昌は、湛然の臨終念仏の記事を『述懐鈔』(続浄九)の中に録した。湛然の代表的著作である『授菩薩戒儀』は、浄土宗へ与えた影響が大きく、派生する作法やそれらの注釈書(続浄一二収録)も多く現れた。浄土教学に関わる湛然の思想資料はそれほど多くないものの、後の日本天台の論議書『台宗二百題』の「弥陀報応」にまとめられた内容からその見識の一面をうかがうことができる。


【資料】『内証仏法相承血脈譜』(『伝教大師全集』一)、『宋高僧伝』六(正蔵五〇)


【参考】山口光円『天台浄土教史』(法蔵館、一九六七)、呉鴻燕『湛然法華五百問論の研究』(山喜房仏書林、二〇〇七)、池麗梅『唐代天台仏教復興運動研究序説』(大蔵出版、二〇〇八)


【参照項目】➡授菩薩戒儀


【執筆者:林鳴宇】