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明瞻

提供: 新纂浄土宗大辞典

みょうせん/明瞻

陳・永定三年(五五九)—唐・貞観二年(六二八)。中国隋・唐初期に活躍した僧。杭州石邑に生まれ、一四歳で経に、一七歳で史に通じ、進士に及第した。飛龍山応覚寺で出家し、後に鄴都大集寺で道綽の『安楽集』に六大徳の一人とする道場に師事して、専ら『大智度論』を学ぶ。大業二年(六〇六)煬帝と京師において僧都不拝王者について問答して譲らず、帝は「国内に僧侶は唯一人瞻のみ」といい、禅定寺に住せしめ、のち知事上座となる。晩年は太一山智炬寺に住し、臨終の際、「念を西方に寄す。弟子に謂って曰く阿弥陀仏来ると。須臾しゅゆにして又曰く、二大菩薩又至る。吾れ観経に於いて十二観を成就す。余は了せず」と、弟子阿弥陀仏と二菩薩来迎したことを告げ、さらに『観経』の前十二観を成就したことを述べ、往生を遂げたという。法然は『観無量寿経釈』に「大唐国中の比丘比丘尼、誰の人と誰の人か此の十二観を成就すといえば、唯だ明瞻法師一人有り、つぶさには僧伝に出でたり。往生を欲せば彼を勘せよ」(昭法全一一一)と述べている。また安土浄厳院本『漢語灯録』所収『逆修説法』ではこれを「明曠」とするが、同院所蔵の『無縁集』および法然院所蔵の『師秀説草』では「明瞻」と記される。『逆修説法』の「明曠」の記述は、早い時期の誤写に基づくものと考えられる。『逆修説法』では「唐土の明瞻と云う人は十三観の中に日想より普往生観に至る十二観を成就したる人なり、我等如きも見んと欲すれば必ず成就すべきなり」(昭法全二四〇)と述べ、一層具体的に記している。


【資料】『続高僧伝』二四(正蔵五〇)、『観無量寿経釈』『逆修説法』二七日(共に昭法全)、宇高良哲『〈逆修説法〉諸本の研究』(文化書院、一九八八)、藤堂恭俊博士古稀記念会編『浄土宗典籍研究・資料篇』(同朋舎出版、一九八八)


【参考】金子寛哉「法然上人引用の明曠について」(『仏教論叢』二四、一九八〇)


【参照項目】➡明曠


【執筆者:金子寛哉】