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安心

提供: 新纂浄土宗大辞典

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あんじん/安心

浄土願生者の具えるべき心構え。安とは安置、心とは心念の意味。世俗にまみれる不安定な心に対して、広く宗教は安定した心の状態を獲得する方法を説き、仏教では修行によって得られる安定した心の状態を安心という。ただし浄土宗では、阿弥陀仏本願称名念仏によって、散乱する心のままで決定往生の確信に安住することを指す。つまり、私たちの心念を揺るぎなく極楽(所求)、阿弥陀仏所帰)、念仏去行)の三に安置することである。善導は『往生礼讃』前序で「問うて曰く、今、人を勧めて往生を欲せんには、未だ若為いかんが安心起行作業さごうして定んで彼の国に往生することを得るを知らず。答えて曰く、必ず彼の国土に生ぜんと欲せば、観経に説くが如くは三心を具して必ず往生を得。何等をか三と為す…」(浄全四・三五四下)といい、浄土往生する三要件として安心・起行・作業があり、その安心とは『観経』が説く三心であるとする。法然は『浄土宗略抄』で「浄土門に入りて行うべき行につきて申さば、心と行と相応すべきなり。すなわち安心起行と名づく。その安心といは心遣いのありさまなり。すなわち『観無量寿経』に説いていわく〈もし衆生ありてかの国に生れんと願ずる者は三種の心を発してすなわち往生すべし。何等をか三つとす。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具する者は必ずかの国に生れる〉といえり」(聖典四・三五四/昭法全五九三)といい、往生のための行においてはこころぎょうとが相応すべきことを押さえた上で、「心遣いのありさま」であるとする。聖光が『授手印』で安心門と起行門とに区分して安心門だけを強調する義を邪義とする根拠は、この点にあるといえる。

ところで、大乗仏教において菩提心修行の根本であるから、『観経』では「かの国に生ぜんと欲さん者は、まさに三福を修すべし」(聖典一・二九一/浄全一・三九)として三福を説く中で「菩提心を発すこと」を浄業正因の一つとし、上品下生の段では「ただ無上道心を発す」(同三〇八/同四八)といい、善導は『観経疏』巻頭で「道俗の時衆じしゅうおのおの無上の心を発せ」と勧めて「同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん」(聖典二・一五九~六一/浄全二・一上~下)と締めくくっている。このことは道俗の大衆に対して穢土を厭い離れ浄土を欣い求めることを促し勧めるためであると理解されるので、特に浄土教においては菩提心とともに厭欣心えんごんしんが同意語的に理解されることにもなる。良忠は『伝通記』玄義分記一で、まず菩提心を「聖道菩提心穢土の中において願を発し穢土の中において行を立てる故に難行なり。浄土菩提心は願は穢土に在りて行は浄刹に在る故に易行なり」(浄全二・八五上)といい、さらに「菩提心を総安心と為し至誠心等を別安心と為す」(同八六下)というように、菩提心を総安心至誠心等の三心別安心と呼称する。往生のための正因に関していえば、「三心は遍く九品に通じ、菩提心かぎり上品に在り」であり「三心は是れ我等が分なり」(同八七上)なのである。聖冏は『糅鈔にゅうしょう』四で「遠く仏果を求るを菩提心と名づけ近く往生を願ずるを三心と名けたり。菩提心を総と云い三心を別という事是一往なり」(浄全三・一一〇下)とし、「三心を教ゆることは去行を調熟せんが為なり。然れば則ち往生を得ん為に別して所修の去行に付いてまさに往生意楽いぎょうを発すべし。別安心と名くるの則んば三心なり」(同一一一上)といい、往生浄土の行である口称念仏去行)を調い熟させるために心行相応の三心別安心として説明される。そして「今云う、安とは安置なり。心とは心なり。謂く、念を所求所帰去行の三に置くを安心と云うなり」(同一一一下)という。また『和語灯録日講私記』一では「喩えば清水へ参らんと思うは安心なり。一足一足行きて足を運ぶは起行なり。安心とは安置の義にして置くという義なり。置くと云うは三の置き様有り、所求所帰去行の三の置き様なり」(浄全九・六八七)という。


【参考】石井教道『浄土の教義と其教団』(宝文館、一九二九)、阿川貫達『浄土宗義概説』(浄土宗、一九五七)


【参照項目】➡三心所求・所帰・去行菩提心安心・起行・作業


【執筆者:藤本淨彦】