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所求・所帰・去行

提供: 新纂浄土宗大辞典

しょぐ・しょき・こぎょう/所求・所帰・去行

浄土宗信仰や教行における三要素で、目的(所求)と対象(所帰)と実践(去行)のこと。所求(信仰の目的)は往生浄土所帰信仰の対象)は阿弥陀仏去行信仰の実践)は本願念仏である。宗祖法然の教説・法語ではこれら三つの概念を用いることはないが、内容的にすべて往生浄土阿弥陀仏本願念仏を説く浄土信仰の目的と対象と実践についてであることは言うまでもない。善導の『観経疏』において、所求という語は一三回、所帰は五回、去行は二回の使用であり、良忠の『伝通記』や『決疑鈔』において多く見られ、聖冏の『糅鈔にゅうしょう』そして義山素中の『和語灯録日講私記』などでは「所求所帰去行」(浄全九・六八七下ほか)の熟語として用いられる。聖冏は『糅鈔』四で「念を所求所帰去行の三に置くを安心と云うなり」(浄全三・一一一下)と言う。良忠は『決疑鈔』二で正行に関して五番相対の純雑対について述べるにあたり、「正行を修する者は、その去行は所求と所帰とに順ず。故に一一の徳を成ず。謂く西方の行人、極楽を以て所求と為し、弥陀を以て所帰と為して、弥陀の事を行ずれば、所帰及び所求に相い順ずるが故に親近等の徳を成ず。また西方の行人、極楽を以て所求と為し、弥陀を以て所帰と為すといえども、もしその去行の余業に依る者は、所帰及び所求に相違す。故に疎遠等の失を成ず」(浄全七・二二二上)と言って三者の相互関係を述べている。このことについて藤堂恭俊は「所求、所帰去行の三者が阿弥陀仏聖意によって一貫し得てこそ、その信仰は純粋であるが、本願聖意にもとづかない去行を行ずるということは、所求、所帰去行三者の一貫性を破ることであり、信仰の純粋性をみだすことであるから不純といわなければならない。また本願聖意にもとづかない去行を行ずるということは、いうならば、本願聖意によって一貫せしめられている所求、所帰のなかに、異質な去行をまじえることでもある。一は願生者における信仰の純粋性にかかわる問題であり、一は信仰の対象である阿弥陀仏の意志にかかわる問題である」(『法然上人研究 思想篇一』一九二)と述べている。

義山素中の『和語灯録日講私記』一では「喩えば清水へ参らんと思うは安心なり。一足一足行きて足を運ぶは起行なり。安心とは安置の義にして置くと云う義なり。置くと云うは三の置き様有り。所求所帰去行の三の置き様なり」と言って、続けて「其の所求とは西方なり…弥陀凡夫を摂したまう願あるが故に凡夫報身報土に生ずることは弥陀の一国なり。諸仏の国土凡夫叶わず故に有りといえどもなきが如し。是の故に行者安心はただこれ極楽の一土なりと西方ばかりに心を置くなり。次に所帰の心の置き様はただ阿弥陀如来帰依するなり。諸仏ましませども、うらめしくも諸仏は捨てたまうを阿弥陀如来ばかり凡夫を摂したまう。故に弥陀一仏に帰依するなり。弥陀、諸仏の捨てたまう凡夫を済わん為に因位にこの願を立てて、まず自身から仏果を成したまうなり…次に去行の心の置き様はまず総じて通途は六波羅蜜修行を段々に修して初地已上にならねば報土往生は叶わず。また極楽浄土往生は、兎角我等は自力にて修行は叶わずただ他力に依りて生ずるなり…故に万行を捨て、ただこの念仏の一行を願じたまうなり」(浄全九・六八七下~八下)と所求所帰去行の三者について規定している。 『選択集』における論点として捉えれば、次のような藤堂恭俊による「法然は、自著『選択集』の開巻劈頭、内題に続いて本文に入るにさきだって、〈南無阿弥陀仏 往生之業念仏為先〉という十四文字を置いている。私はこの十四文字のなかに、浄土宗の所求(目的)、所帰信仰の対象)、去行(目的達成の方法)の三つを読み取る。すなわち、割注の〈往生之業〉というなかの〈往生〉は所求を示し、〈念仏為先〉というなかの〈念仏〉は所求を達成する方法・実践としての去行を示し、〈南無阿弥陀仏〉のなかの〈阿弥陀仏〉は、浄土の主人公として仰がれ、帰命往生を願う信仰の対象としての所帰であり、さらにまた、〈南無阿弥陀仏〉の六字は去行としての念仏を具体的に、願生者がみずからの口をとおして称える名字であることを示している」(『法然上人研究 思想篇二』五四)との解説が注目される。浄土宗教義においては、単なる概念用語としての往生浄土阿弥陀仏本願念仏という断片的な知識として取り上げるのではなくて、「求める・帰依する・行う」という行為として実践するというレベルの取り上げ方である。言うならば、知識は説明・解説であり、その知識を得る者の主体的生き方にはまったく触れない。行為としての実践は、その実践者の問題解決をも含む主体的生き方を取り込んでいく。じつは、浄土宗義がこのように捉えられてきた伝統的特質に注目し、行為として実践し主体的な課題としての「生き方」へと連なる姿勢をこの用語の特質とすることができる。


【参考】石井教道『浄土の教義と其教団』(宝文館、一九二九)、藤堂恭俊『法然上人研究 思想篇一・二』(山喜房仏書林、一九八三、一九九六)、藤本淨彦「所求・所帰・去行論—宗学の基源の問題として—」(同『法然浄土宗学論究』平楽寺書店、二〇〇九)


【参照項目】➡浄土往生阿弥陀仏念仏


【執筆者:藤本淨彦】