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願行寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

がんぎょうじ/願行寺

東京都品川区南品川。既成山光明院。東京教区№八三。開山は長蓮社観誉祐崇ゆうそう。寛正三年(一四六二)、ある念仏行者ひじりが品川の海辺に結んだ草庵を文明年間(一四六九—一四八七)に観誉祐崇が現在地に移し、既成山光明院願行寺と号し開山した。『新編武蔵風土記稿』では行基開基。かつては塔頭たっちゅうとして顕性院・正聚院(正受院)・長松庵・陽月庵・芳林庵の二院三庵があった。地蔵堂には、承応元年(一六五二)に開眼した、俗に「しばり地蔵(しばられ地蔵)」と呼ばれる石の地蔵がある。十夜法要は江戸年中行事の一つで、山手第一の十夜といわれた。『願行寺文書』(「十夜縁起」「本尊縁起」「願行寺古文書」)三巻一八点が残されている。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』下(『増上寺史料集』七)、『蓮門精舎旧詞』一九(続浄一八)、『新編武蔵風土記稿』五四(『大日本地誌大系』三)


【参照項目】➡祐崇


【執筆者:原口弘之】


長野市松代町松代。功徳山広大院。海津城の巽方にあることから城巽林ともいう。長野教区№一一六。上田城主だった真田信之が移封先の当地に建立、元和八年(一六二二)上田願行寺五世岌誉道山を請じて開山とした。江戸時代には触頭ふれがしらを勤めた。享保一八年(一七三三)、安永八年(一七七九)、明治五年(一八七二)、同二四年と四回火災にあい、現本堂は昭和五年(一九三〇)に建立された。


【資料】『蓮門精舎旧詞』二五(続浄一八)


【参照項目】➡願行寺


【執筆者:山野井亮秀】


長野県上田市中央。功徳弘誓院。長野教区№一二四。京都知恩院末寺海野うんの(長野県東御とうみ市)を流れる千曲川の川底で発見された善光寺一光三尊像によく似た金仏を、海野幸義が奉じて、日蓮社東誉を開山としてこの地に一宇を建立したことが起源とされる。天正一四年(一五八六)真田昌幸が上田城下に移し、藩主が松平氏に代わると同家の菩提寺となった。江戸時代には触頭ふれがしらを勤めた。


【資料】『蓮門精舎旧詞』二六(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【執筆者:山野井亮秀】


京都府宇治市木幡西中。尊勝山慈心院。京都教区№三三六。はじめ尊勝寺といった。暦仁元年(一二三八)、慈心良空による開創、開基は清水勝宗。木幡流の本寺として隆盛するが、いつしか荒廃した。永禄年間(一五五八—一五七〇)、武州品川願行寺の道蓮社深誉が中興し、寺名を願行寺と改めた。江戸期には触頭ふれがしら寺院の役目を務め末寺八箇寺を有したが、明治期の廃仏毀釈を契機に統廃合され、現在では当寺を残すのみである。なお中世の公卿日記に散見する木幡観音寺との関係を指摘する説もある。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、『拾遺都名所図会』四(『新修京都叢書』七、臨川書店、一九六七)


【参考】『宇治市史二—中世の歴史と景観—』(宇治市役所、一九七四)


【参照項目】➡願行寺


【執筆者:加藤弘孝】