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生命倫理

提供: 新纂浄土宗大辞典

せいめいりんり/生命倫理

生命に関する倫理。バイオエシックス(bioethics)。生命倫理ないし生命倫理学は、一九六九年にニューヨークに設立されたヘイスティングス・センターと、一九七一年にワシントン特別区のジョージタウン大学に設立をみたケネディ倫理研究所を研究拠点にして展開された。後者では設立された翌年から『バイオエシックス百科事典』の編纂に着手し、六年の歳月を費やして一九七八年に初版が、第二版は一九九五年、第三版は二〇〇四年に刊行された。第二版以降の定義に従えば、生命倫理(学)とは医療上生ずる倫理的諸問題を学際的な場で論ずる体系的研究のことになる。一方、生物科学者であるV・ポッターは第四回国生命倫理学会(一九九八年)において、生命倫理学には三段階があるとする。第一段階は、医療と未来、医療と他の学的領域とのかけ橋となる「ブリッジ・バイオエシックス」、第二段階は医の倫理と環境倫理との融合を目指す「グローバル・バイオエシックス」、第三段階は遺伝子操作と倫理的行動といった「ディープ・バイオエシックス」の段階である。しかし、実際にはさらに多くの定義が存在し、このほかには、誤解のないようにバイオエシックスと原語表現を用いるもの、医療倫理、生存倫理の語を用いるもの等多様である。一方で、共通するのは議論の公開性に重きを置く点である。第二次世界大戦後に生命倫理が議論されるようになったのは、大戦中のナチスが犯した残酷な人体実験や、一九三二年から七二年にかけてアメリカアラバマ州タスキギーでの十分な説明もないままに進めた梅毒の特効薬ペニシリン開発事件の告発などが契機であった。生命倫理においてインフォームド・コンセントを重要視するのはそのためである。

生命倫理には、T・ビーチャムなどによって唱えられた自立性の尊重、無危害、善行、正義の四つの基本原則がある。しかし、厳密に言うと生命倫理に普遍的な原理は存在せず、それを受容する文化・社会の影響を受けて変化する。現代は、医療上の革新的な進歩による一連の生命操作という、人類がかつて経験したこともなかった新しい時代的局面を迎えている。現代的な視点に立ち「いのち」の問題に対して、教義的な問い直しをもって取り組むことが現在の仏教界には要請されている。具体的には、医学の進歩が人間の死の予告を可能にしたことによってターミナルケア(終末期医療)の問題が起こり、さらに、体外受精、冷凍受精卵、代理母、胎児の減数手術、安楽死尊厳死臓器移植、遺伝子治療等の一連の生命操作が行われるに至って、宗教界は現代人の生死観について問い直さざるをえなくなった。

健康には「生命の質」あるいは「生活の質」と訳されるQOL(Quality of Life)が大きく関わるが、これは「いのち」の問題といってもいい。それと並行して「人間の尊厳」(human dignity)が随所で論じられているが、それらは万物の霊長としての人間を、人間以外の動植物から特化せしめる概念であり、近代以降キリスト教的思想とルネッサンス以降の啓蒙思想の影響の下で生まれたものであったといわれる。

一方、仏教では縁起によって「いのち」を位置づけるため、「いのちの尊厳」(sanctity of life)に置き換えた方がいいとする意見がある。「生死一如」というように、生と死を分けて考えること自体おかしいという仏教者もいるが、医療のなかでも生殖医療の技術革新は止まるところを知らず、難病克服とは裏腹にいのちのモノ化・パーツ化を押し進めているという事実は無視できない。人間は絶えず他と関係し合うことによって、個となり自己となり得るが、同時に自己の生は他者の生ではあり得ない。言い換えれば、あらゆる人間は、一人として同じ生を受けて生きてはいない、ということに目を向けていくべきである。この二つの人間存在を見つめることが、真の対話を考えるうえでの第一歩となる。従って医療進歩の流れをよく把握した上で、医療界と仏教界とは相互に対話を促進していくことが求められる。


【参考】生命倫理百科事典翻訳刊行委員会編『生命倫理百科事典』(丸善、二〇〇六)、V・ポッター著/今堀和友他訳『バイオエシックス—生存への科学』(ダイヤモンド社、一九七四)、ピーター・シンガー著/樫則章訳『生と死の倫理』(昭和堂、一九九八)、星野一正『いのちはだれのもの』(大蔵省印刷局、一九九六)、藤井正雄「生命倫理と宗教—生・性・死をめぐる諸問題」(『大倉山文化会議研究年報』五、一九九四)


【執筆者:藤井正雄】